季節が、冬の手のひらから春の懐へと静かに逃れようとしている城戸邸の庭、青い硝子張りの大きな室内プールがある。アール・デコに影響を受けた、繊細でいて大胆な様式のプールは全て葉を地面に舞い散らした木々の間に、その丸い屋根と壁の白い大理石を輝かせていた。
豪華なまでに広い城戸邸の庭には、様々な施設が整えられている。星矢を始めとして、この家に係わる全てのもの達が、それらを自由に使うことができるようにと計らわれていたが、普通でも人の少ない城戸邸ゆえに、それらを使用するのは自然彼等だけに限られていた。
ひがな一日、いつでも使用可能であるようにメンテナンスを完璧にされた施設は、全くもって手頃なレクリエーションとなっていた。プールに向かう、人が踏みしめて出来上がった枯れ葉の道を、星矢が強い足音とともに走ってやってくる。
「あれ、先客だな」
気紛れに水着をもってプールに足を運んだ星矢は、その扉が開いて泥が玄関に散らばっているのを見てそう思った。そういえば、奥のほうから水を使う音と、ボイラーが激しく燃え上がっている音も聞こえる。星矢が明けた扉は、勢いが良すぎて跳ね返り、柔らかなゴムの噛み合いによって、外と中とを切り離した。
丸い金色のドアノブをつかむと、星矢はロッカーとシャワーのある更衣室へ足を踏みいれると、先ほどから聞こえていた音が大きくなり、人の気配も感じられた。
高すぎるほど高い天井の下に作られたこの部屋には、薄青色のタイルで作られたシャワーの個室がいくつか並んでいる。その一つのカーテンが引かれて、中から水があふれ出してきていた。星矢がさっさと服を着替えていると、そこから誰かが外へ出てくる。
「星矢?」
全身に浴びたシャワーの湯を、渇いたタオルでふき取りながら、瞬が声をかけてきた。
「何だ、入ってたのは瞬だったのか、もう出るのかい?」
「うん…ちょっと疲れちゃったからね、今日は もう部屋へ戻るよ」
豊富に揃えてある備品のタオルを幾つも使って、瞬は髪のタオルドライをすませた。使ったタオルは籐で作られた篭に入れておけばいい。腰に一枚タオルを残し、瞬は他のものを篭に投げた。無防備になった背中に、薄く赤く浮かんでいる細い傷が、妙な具合に重なり合って模様になっていた。それは、よほど気を付けて隠さなければ、たちまちのうちに気付かれてしまうあらわに場所についている。
「何だ、瞬、傷だらけだぞ、背中」
「?」
とっさに瞬は微笑むことを忘れた。あわてて新しいタオルを背中にかける。
「う、うん、ちょっとぶつけちゃったんだ」
「アザみたいになってるのもあるじゃん、ドジだなー」
「え、すぐ治るよ。跡になってるだけだし、痛くもないから」
まだしっかり身体の水もぬぐってはいないのに、瞬は急いでシャツを着込む。
「星矢も早く泳いでごらんよ。水、変えたばかりできれいだったよ」
「え、やったぁ」
シャツのボタンを止めて、下着を付けようとかがみこんだ瞬の背中を片手で一撃して、星矢はプールの方向へと走っていった。両開きのドアを勢い良く開けはなって、星矢が消える。それを確かめてから、瞬はそっとシャツの第一ボタンを外して胸元をみつめた。前側にも、瞬がいう所のすり傷はついている。小さな吐息が、一人きりになったロッカールームに流れていった。
予想に反して、先客は瞬一人だけではなかった。星矢は扉から一気にプールの温い水の中へと、はずみをつけてダイビングするつもりだったのだが、それはその先客のために不可能となった。少し下唇を突き出し、不満の表情を精一杯表し、星矢はその先客に不愉快さをアピールする。
「…馬鹿やってんじゃねぇよ、氷河!」
片手を振り回して星矢は怒鳴った。その声を聞き流して、氷河はプールの中に再び波紋を広げる。一糸まとわぬまま、広い水の中を我が物顔に泳いでいた氷河も、プールサイドに脱ぎ捨ててあった自分の水着に星矢が手をかけると、泳ぐのを止めた。
「何だよ、これはよお!はかないつもりならこんな所で脱ぐなよなっ。せんたくものじゃねーだろっ」
「持っていってくれるのか星矢」
「誰がそこまでめんどーみるかっ。さっさとしまえ、水が汚れる」
「水が汚れるとはひどい言われようだな。所詮皮の中身は同じだと思うが、それとも俺がプールを風呂がわりにしているとでも?」
「してんじゃないの?お前のことだから」
「ふん」
星矢の挑発を鼻で笑い、氷河は水に身体を流した。首を水の上に出したまま、背泳ぎで水を切る。一直線に滑ってゆくと、壁の際でくるりとターンをした。そのまま魚のように水中を進んでゆき、ようやく氷河が姿を現したのは、もうプールを半ばまで過ぎたところだった。
「うまいな、氷河」
「これが目的で修行していたからな。お前は泳がないのか、星矢」
「泳ぐよ、泳ぎにきたんだから」
右手でつまんでいた氷河の水着を、プールサイドのベンチの上に投げ出す。いつ脱いだのかは知らないが、とりあえず水に一度は入ったらしく、水をすった氷河の水着は、随分と重かった。
「星矢」
青く塗られたプールの底が、ガラスを透かした空の色と混じりあって、回りを青く染めている。その中に白っぽく色が抜けた場所が氷河の顔だった。
「お前も脱いだらどうだ、気分いいぞ」
何を言っているんだと、星矢は口を尖らせた
「やだよ、シベリア原人」
プールサイドから弾みを付けて、星矢は水面へと身を躍らせた。水しぶきが、プールの真ん中に湧きおこる。冷たくもなく、暖かくもない生温い水が身体を取り巻いて揺れた。
深みに飛び込んだ星矢は、その勢いを保ったまま水中を白い泡と共に潜っていったのだが、その進行を不意に引き留めるものがあった。
妨害者は星矢の足首を掴み、水面へ上がろうとするのを、無理やり水底へと引きずり込む。逆に上っていった白いあぶくの中から現れたのは、案の定氷河であった。
「!」
水の中ではあぶくばかりで声にならない。口を開けて抗議しようとして、思いきり水を吸い込んでしまった。喉を押さえて氷河をふりきり水面から飛び出すと嵐のように咳き込む。星矢は笛のような音の呼吸を繰り返し、プールの縁にすがりついた。
「殺す気か、てめー」
「あれぐらいで死ぬようなお前か」
しらっと氷河は言ってのける。
「首をしめて沈めたところで、すぐに甦ってくるだろう、お前ならな」
「危ねえ遊び、してんじゃないぜ」
ケホン、と最後の席を終えて、星矢は唇を拭った。そういえば、と瞬の背中にあった赤い跡を思い出す。
「瞬にもこんな事してたのか?背中、傷だらけだったじゃないかよ。ずいぶん、疲れたって言ってたし」
「ああ、あいつは、そこのタイルの上で抱いたからな。少し跡がついたかもしれんな。水の中は嫌いだそうだから、仕方ない」
氷河に背中を向けたまま、星矢は言葉を失う。頭の中が白くなって、何も話す気力がなくなる
「瞬は気難しいからな。いつもうまく行くとは限らんし、機嫌のとりようも神経を使う。星矢、お前はどうだ。水の中では嫌いか?」
「いや、嫌いとか…じゃなくて、さ」
「好きか?」
氷河が、どうやら自分をからかっているらしいと言う事に、星矢はようやく気付いた。振り向こうとした途端、足を大きく払われて、再び水の中に引きずり込まれる。
「───っ!」
氷河、と言ったつもりだが、何かガボガボと言うにごった音がしただけに終わった。両手を振り回すと、別の人間の腕に当り、星矢は無意識にそれにつかまって、頭を水上に持ち上げた
「氷河、お前…」
「なんだ、やらせてくれるのか?」
「俺とやりたかったら、俺を殺してからにするんだな。俺はもっと気むずかしいぜ」
水面すれすれに顔を出した星矢は。今度はあまり乱さなかった呼吸で、一息にいった。
それを半眼で受け止めた氷河は、凍てつかせた表情で答える。
「そうか。じゃあ、殺すことにしよう」
氷河の両手が星矢の喉をつかみ、水の中へ頭を押し込んだ。余りに無造作な行動で、殺気が見えないほどだ。しばらく水中からあぶくがいくつも浮かびあがってきていたが、次第にそれが小さくなると、ぴたりと途絶えた。水が動くのを止め、波が収まって水面が鏡のように静かになる。が、氷河の表情はいぶかしげだった。
「いいかげんにしろ」
氷河が舌打ちした瞬間、水中から二本の腕が伸びて、氷河の喉をつかんだ。そのまま水中に引き込まれ、水の中で星矢と顔を合わせる。
息が止まったかに思えた星矢が、水中で笑っていた。それにつられて氷河も唇をゆがめる。
二人で同時に水面から顔を上げると、星矢は濡れてはりつく髪を両手で後ろに追いやって言った。
「よーし、俺死んだ。氷河も死んだぜ。死人が二人じゃ、できやしないよな」
「ご同様。死人は欲望がないものだ」
肩をすくめて氷河は笑った。今度こそ本当に声をあげて。
「今日はあきらめる。だが、明日になれば死人も起きるだろうからな。今度はうまく、お前だけを殺すことにしよう」
「そうそう、氷河の好きにはならないよ」
銀色の梯子からプールサイドにあがった氷河は、星矢の投げ捨てた自分の水着を取り上げ、水の中の星矢に視線を送った。
「それを、死んでから言ってみな」
氷河の視線を受け止めて、星矢はぷくりと水に沈んだ。波紋が大きく広がり、薄くなる頃にはプールサイドから氷河の姿は消える。ただ乱反射する太陽の断片が、水面を滑っていった。
終