できるなら外出などしたくない、まだ暑さのきつい昼下がりは、やはり人通りもほとんど無い。
それでも外へ出なければならない人たちは、わずかでも日陰を捜し、店先の軒をたどりながら歩いていた。
夏用の着物の衿が、汗に濡れて剣心のうなじにへばりつく。
夏も冬も無く胸元を大きく開けた左之助の服装は、冬にはこちらが寒くなってしまうが、こんな時には羨ましかった。
「ふう、蒸すなぁ」
「まったくだ。東京もいいかげん暑ぃと思ってたが、西の国はなんつーか、頭のてっぺんから押さえ込まれるみてぇに暑いぜ」
足元の道路もかりかりに乾いて、真っ白に太陽の光を反射して返す。
うつむいて歩くのさえ、許してはくれないようだ。
「そろそろじゃなかったか?また神社の鳥居が見えてきたぜ」
「いや、まだもう少し先のはずだが…」
「京都ってのはどうしてこう、社寺仏閣が多いのかね。一丁歩くたびに、必ず黒い屋根やら鳥居が見えらぁ」
「人が住むより先に、そういうものが建っていたからだよ。もともとこの辺りは、誰も住んでいなかった場所で、桓武天皇が御代に遷都が行われ、それまで奈良にあった都をこちらに移して…」
と、剣心がひとくさり京都の成り立ちを説明したが、左之助は聞いているのかいないのかわからない顔で歩いていた。
「水が飲みてぇなぁ…」
「社に着いたら、いくらでも飲むといいさ」
剣心が腰に挿している逆刃刀の姿が見えない。
その代わり、剣心は剣と同じぐらいの包みを大事そうに抱えていた。
「あの鍛冶屋の親子んちで、何か冷たいもんでも、もらえばよかったなぁ」
今では台所の品々を扱っているとはいえ、もともとは刀鍛冶を生業にしていた流れから、青空の知人には今でも刀を打つ仕事をしている者が何人もいる。
仕事の流れというものはそういうもので、菊一文字の印のつく切れの良い鉄鋏を扱っている鍛冶屋の一派もいた。
剣心は逆刃刀・真打ちを青空の知り合いの研ぎ屋に預けて、研ぎと浄めを頼んでいた。
さきほどそれを引き取って、新しい鞘におさめたところだ。新しい鞘は、真剣の戦いに向いた鉄拵えの代物ではなく、赤い漆をじっくりとかけた、品の良い色合いのものだ。
「赤子が泣いていたからなぁ。そんな暇も無かったか」
左之助が東京で住んでいる、破落戸長屋とほとんど同じ程度の、小さな一間の部屋に親子三人が重なりあうようにして住んでいる。
商売道具の他には、これといった品も無い質素な生活が、青空の背中に浮かんで見えた。「あと少しだよな、剣心。なんか、この辺の道に見覚えがあんだけど」
「ああ、そこの角を曲がればすぐ…」
「よし!」
左之助は大きく頷くと、不意に剣心の腕を握って早足になった。
引きずられるように剣心は左之助に身体ごと持っていかれる。
「このまんまじゃ、お天頭さまにじりじり焦がされちまう。さっと行こうぜ、さっと!」
「わ、さ、左之っ!」
あまりの暑さに、急ぐことなど考えてもいなかった剣心は、左之助に引っ張られて足を引きずるように、土ぼこりの上がる道を走らされた。
夏の白い光が、目の前でくらりと回る。
息を止めないと胸一杯に、夕顔の香りが詰め込まれそうだ。
だが剣心がその白い色の鳥居を目にした時、自分でも思いがけないほどの後悔に襲われたのを感じた。
これを返してしまえば、また徒手空拳の人に戻ってしまうと、剣心は自分の手の中の重みを握りしめる。
何度も繰り返される窮地を、これはそのたびに救ってくれた。
逆刃刀・真打ち。
強くしなやかに、自分の力を何倍にもしてのける、重々しく魂の通った一本の刀だ。
ただ腰にあるだけで、持っていると自分が知っているだけで、前へと足を向ける力を貸してくれる。
絶対に人に刃は向けない、決して人を傷つけないと誓いながら、手放せないこの人斬り包丁の頼りになる冷たさが、今までの剣心を支えていたのだ。
「おい、どうした?」
立ち止まったまま動かない剣心に、左之助が後ろから声をかけた。
びくん、とその声に身じろぎをした剣心は、ゆるゆると左之助を振り向く。
上向く瞳が、剣心の迷いを語っていた。
「あー…」
と、左之助は自分の髪を何度もひっかいた。
「返すって決めたのは、剣心なんだぜ。今さらそんな目ぇすんなよ。俺は…」
「…それはそう、だが…」
半身を切られるというよりも、衣服をはぎ取られるような怖さがある。
そう、恐いのだ。
「持っていたほうが、良いのでは…」
「おいおい」
何言ってるんだと、左之助が呆れた。
神殿から賜った逆刃刀を、もう一度奉納しなおすと言い出したのは当の剣心で、左之助をはじめ他の誰もが反対をした。
青空も一度は剣心に差し上げたものだからと、引き取るのを固辞したものだから、元の神社に剣心自身が奉納に行くことを決めたのに。
「どうしたんだよ、んな…脅えた目でよ。誰もおめぇのこと、責めたりしねぇだろうが」
「それは、わかっている…けれど」
「何が恐いんだぁ?」
「…う…」
全てが、恐いと剣心は言いたかった。
すれ違う人の誰もが、こちらを見て悪意を放つような、通り過ぎる風さえもが、自分を傷つけるような気がする。
まして本当の悪意と罠に陥った時、いったい自分はどうしてそこから逃れたらよいのだろう。
手の中にあるこの重み以外に、誰も助けてなどくれない。
鞘から永久に抜かないと誓うのなら、持ち帰っても許されるのではないかと、剣心は考え始めていた。
「ああ、わかった、わかった」
左之助はここまで駆けてきた時と同じように、前触れもなく剣心の腕をつかむ。
「そんなに迷うんなら、ひと息入れて行こうぜ。社寺にもことかかねぇ京だか、茶店にもことかかねぇのはありがてぇ町だ。おら、あっちにノレンが見えやがる。生姜水か冷やし飴でも飲んで、落ちつこうじゃねぇか」
「しかし、左之…」
「しかしも案山子もねぇ。そんなんじゃ、どっちにしたって後悔が残るだろうが」
乱暴につかんだ手をぐいぐいと引いて、左之助は大股で竹づくりの橋を渡り、水路の向こう側に見える茶店に剣心を連れていった。
赤い旗が竿にくくりつけられた茶店は、遠くからでも良く見えるらしく、数人の暑気避けの人たちの姿があった。
炎天下を歩いてきた熱気を、ここで冷ましてゆこうというのだろう。誰もが沢の水でひんやりとなった水菓子や冷やし飴を口にしている。
「おう、ばぁちゃん、冷たいもん二つ」
「はいはい」
逆刃刀の包みを抱えたまま、剣心は縁台にちょこんと腰を降ろした。足元で、素焼きの釜に入った蚊取り線香が、白い煙をくゆらせている。
目的地まで目と鼻の先という場所まで来ていながら、最後の決心を鈍らせた自分の歯がゆさが、剣心はひどく情けなかった。
いったい何をしに、ここまで来たのか、自分が一番良く知っている。判っているのに出来ないというのは、まったくもって悔しい。
「…おい、剣心」
「…」
「聞いてんのか?剣心」
「あ、ああ」
暑さの中では誰もが口数が少なくなるとみえて、数人の客の姿があっても、人の声より裏手の薮のざわめきの方がよく聞こえる。
自分の神経がひどく冴えわたっているのだということに気づかぬまま、運ばれてきた冷やし飴の湯飲みを持ち上げた。
口元に運ぶと生姜の香りと共に、水飴のまったりとした甘みが口いっぱいに広がった。
それまで張りつめていた緊張が、その甘さに溶けてしまったように、湯飲みから口を離した剣心は、深いため息を吐き出した。
「どうでぇ、少しは落ちついたか?」
「拙者は別にそれほど…」
「手が震えてたじゃねぇか。俺が握ったらよ」
左之助に気取られていたと知って、剣心はいたたまれないほどの恥ずかしさを感じた。自分から言い出した事を、果たしきれずにいる我が身がふがいない。
「使えるお守りだからぁなぁ、そいつは。俺にも覚えがあらぁ。特に荒事に足を踏み入れようって奴等のほとんどが、懐に似たようなモン忍ばせてる時期があっからな」
「懐に…何を?」
「ヒ首よ。長いの短いの。そいつに護られて、ゴロツキの見習いどもは何とか路地を歩いていられる。たいがいの三下が、自分に気合い入れるために持ってんだぜ。で、そのうち何とか自分に自信がついて、親分とかに預けるのさ。まぁ、たまに…使っちゃなんねぇお守りを、使っちまう奴もいるけどなぁ」
幸いに自分は刃を抜くような目には遭わなかった、運が良かったと左之助は言う。自分の拳が刃などよりずっと使えると、左之助は早くから自信を持ったからだ。
「使うはずのねぇ刀、人には向ける事のねぇ刃…形は違うが、逆刃刀とおんなじ事だと、俺は思っていたぜ。そいつを奉納しようってんだから、よっぽど悩んだんだろうなと」
「…これを無くしたら、これを持たない拙者には、いったいどんな価値があるのだろう。逆刃刀を持たない拙者など、一介のもと浪人にすぎない…」
「おいおい」
左之助は喉の奧でくすくすと笑った。
「一介の人間で無い奴が、この世にいるかよ。御所におわす御方も、東京の真ん中で威張ってる輩も、所詮はおんなじ人間なんだろ?居る場所や持ち物で、人がそうそう変わるもんかよ」
きょとんとして剣心は、左之助を見上げた。それは以前に自分が言った言葉ではなかっただろうか。
いつの間にかその言葉は、左之助の身体の奧まで染み渡ったとみえる。
「ましておめぇはもう、昔みたく一人っきりじゃねぇだろ。いったい今までに、こんな京都くんだりまで、追いかけてきた奴がいたよ。一人二人三人四人…少しは回りを頼ってくれよ。迷惑って奴をかけてくれてこその、仲間だろーが」
「…」
人に迷惑をかけるなと、他人の世話になることは罪悪だと、いったい誰が言ったのだろう。それは自分すらも許すことができない人間が、他人と関わりを持たないために、自分に課した枷に違いない。
もし人が許しあえるのであれば、きっと…。
剣心の片手が、左之助の上着の裾をきつく握った。
もう一度立ち上がり、あの白い鳥居をくぐれるような気がする。
「左之助…」
「ん?」
「行こう」
その時の剣心の声は、冷やし飴の味より甘く感じられた。
あれほど暑かった太陽の下に比べ、境内から社屋に上がった板間の上は、ひんやりとして心地よい風さえ感じられた。
鴨居にかけられた絵馬や、奉納された様々な絵画が、下に座る剣心と左之助を見おろしている。
外から射してくる光が、ほんのりと社屋の中心にある鏡を照らし、白々とした紙の清楚さを浮き立たせていた。
この小さな神社に、異才の刀鍛冶である赤空は、逆刃刀を奉納していた。
神に捧げ、神が使う刀として捧げられた逆刃刀を剣心が、しばらく借りるという形で使っていたのだ。
奉納される歌舞音曲を、人が共に楽しむことはあっても、時間がたてば腐れてしまう果物や穀物とは違い、鏡や刀を神の前から下げて振る舞うようなことは滅多に無い。
借り受けたものは、返さなければならないと、剣心は京都を離れる際に、自分のものではない逆刃刀・真打ちを、持ち主である神様にお返しに上がったのだった。
神主が常駐しているほど、大きな神社ではないため、他の神主がこの神社を管理しているという。
今日は借り受けた逆刃刀を受け取るため、白い着物を着た初老の神主が、剣心たちを待っていた。
研ぎをかけられ、新しい鞘に変わった逆刃刀を、三宝の上に静かに乗せて、剣心は両手を合わせる。
「有り難うございました。おかげて、命が助かりました」
「では、御神刀を受け取らせて頂きます」
うやうやしく三宝を頂いて、神主は逆刃刀を神棚に奉った。
もともとそこにあったものが、元に戻っただけなのだが、やはりどこかほっとする空気がその場に流れた。
奉納されてから十年間、そこに住んでいたのだ。
ほんの数十日間だけのこととはいえ、開けられた空間は寂しかったことだろう。
逆刃刀が瓜やら西瓜、胡瓜やらと一緒に、神棚におさめられている。
「…ありがとうございました」
鳥居の下で一礼をして、剣心と左之助は逆刃刀を返した神社を後にする。
緑の深い森を背中に持った神社の方向から、涼しい風が吹き寄せてくるのは、気のせいではないらしい。
涼やかな風に見送られるようにして、剣心は足どりも軽く石段を飛んで降りた。
子供のように一段飛びで下まで降りた剣心は、左之助の大きな身体が近づいてくるのを待っていた。
「無くしたとはいえ、今までも使えないままに折れた刀を持ち歩いてはいたし、本当に何も下げないで歩くのは、やはり寂しいな。どうもこう…うまく歩けぬようで。まるで片方の重りを無くした弥次郎兵衛のようだよ」
酔ってもいないのに、千鳥足をしてみせる剣心に、左之助は苦笑いを返す。
命の次に大事としていた刀を奉納した後にしては、どうも浮かれすぎていて、かえって左之助には剣心の様子が不審に思えていた。
わざとそう振る舞っているのではないかと、左之助にまで見破られても剣心は、そうしないではいられない。
不安な気持ちはもっと大きな不安を呼び、いつしか耐えきれない恐怖となる。
もうこれ以上の困難が降り懸かってくることのないように、剣心はせいせいとした気持ちを心の奥から引き出そうとしていた。
「おい、待てよ!」
乾いた地面をおどけて走る剣心に、左之助は長い腕を伸ばした。肩をつかむと自分の方へと引き戻す。
「逆刃刀なんて…いらねぇよな。何なら俺が、おめぇの懐刀になってやる。いつでも側にいて、なんかあったら…」
「何か、など、できれば無いほうが良いのだがなぁ」
「ねぇ、か?」
「願わくば」
そんな時でも、棒切れ一本あれば良いと、剣心は考える。
誰が誰を守らなければならない、という決まりはない。できる時に、できる者がそうすれば良い。
自分が誰かを守れるように、左之助が自分を守ってくれることがあっても、良いではないか。
「誰かが目の前から消えると…嫌な気持ちになる。誰も、どこへも、行かぬと良いなぁ」
「誰も消えやしねぇよ。一番あやしいのは、おめぇだ」
「…ああ、そう…かもしれないな…」
自分から消えることの繰り返し。
何度も何度も、そうして十年を過ごしてきた。繰り返しだけが、そこにあった。
「…あん時、殺しときゃ良かったぜ」
物騒な台詞を吐いて、左之助は剣心の身体を抱き寄せると、深々と唇を奪った。
唇が切れてしまいそうな険しい口接けに、剣心は立ち眩みを起こしかける。照りつける夏の陽射しに、頭の芯までがぼうっとなったまま、剣心は左之助の腕の中に抱き込まれていった。
十年などほんのひと昔。
長いと思えば果てしなく長く、短いと思えば光陰のように早い。
鉄の塊にすがるようにして、そうしなければ生きてはゆけないと思っていたのは、自分自身の不安によるものだった。
失ったら生きては行けないものなど、いったいどれほどあるだろう。
ましてそれが、たかが一本の金属の塊にすぎないと判ってしまっては、手にしているのも空しく恥ずかしい。
通りすがりにからからと鳴る、道ばたの風車売りの華やかな色が、夏の陽射しに輝いている。
さらさらと音を立て湧水が流れ去ってゆく水路の土手を、どこまでも二人は歩いた。
彼らの手がしっかりと握られているのを見た者は、そう多くは居ないだろう。
みどり濃くみどり深い山すその小道を、夕刻の兆しが訪れるまで剣心と左之助は、いつまでも歩いていた。終