長らく破落戸長屋の面倒を見ていた作造爺さんが、孫が所帯を持つというのを機会に田舎へ帰ってからというものの、なんとなく長屋の周囲が薄汚れてきていることに左之助は気づいていたのだが、箒 を持ってすす払いなどどうにも性に合わない左之助は、他の店子と同じように見てみぬふりをしていた。
何しろ左之助ときたら、ただいま売り出し中の喧嘩屋で、長屋の部屋になどほとんど居た試しがない。たいていがどこかの賭場か、呼ばれた場所で夜明かしするのが常なのだった。
ところがある日、左之助がいつものように喧嘩をしのいで帰ってくると、どうも長屋の周囲がこぎれいだ。
「誰か気のきいた奴が、掃除でもしたのか?」
そんな奴がこの長屋に住んでいるなどと、まるきり左之助は考えてもいないくせに、そんな事を言う。
角の吹き溜まりに積み重なっていた落ち葉は取りのけられ、放り出されていた塵は片づけられ、おまけに打ち水までがしてある。これほど丁寧に掃除がしてある事など、作造爺さんが居た頃でも、正月ぐらいのものだった。
長身の左之助が、腰をかがめて木戸をくぐると、誰も居ないはずの作造爺さんの部屋から、笑い声が聞こえてきた。誰か数人の声の中には、聞き慣れた声も混じり、どうやら話に盛り上がっている様子だ。
「おう、何だか賑やかじゃあねぇか。爺さんが戻ってきたのかい。まさか孫に追ん出されたんじゃねぇだろうな」
はったりが命の喧嘩課稼業には最適な、晒しで腰から下をぐるりと巻いて、左之助自慢の万年一張羅の悪の字半纏が、爺さんの部屋の障子をがらりと音を立てて開けた。
左之助の目に飛び込んできたのは、鮮やかな緋色だった。そしてくっきりとそこに描かれた十字の朱文字。見たこともない色の髪を頭に頂いた、左之助の胸を打つ笑顔がそこに座っていた。
不意に高鳴り、果てしなく早くなる鼓動に翻弄され、いったい自分が何を見たのかと、もういちど左之助が目の焦点を合わせた時には、もう恋に落ちていた。
「相楽・・・左之助、どのでござるか?」
穏やかな声が、周囲からやってくる全ての音を制していた。
「拙者、緋村剣心と申す流浪人でござる。縁あって、この長屋の持ち主である神谷の主人に頼まれ、今日からこの長屋の管理人を務めさせていただくことになった、どうかこれからよろしく・・・」
これはきっと菩薩か観音様の生まれ変わりに違いないと、左之助はこの新しい管理人を見ながら思っていた。こちらに向ける優しげな微笑は、左之助が知っているどんな女の物よりも魅力的で、一時たりと目を離すことを許さない。畳の上にぴたりとつけた、しなやかな白い手首は、折れるのではないかと心配になるほど、左之助には細く思えた。
なんとなく妙な言葉遣いをしているが、きっとこれは剣心が生まれた地方独特の物言いなのだろう。共通語などほとんど無い時代に、同じ言葉話す人間など、同郷人以外には存在しないのが常識というものだ。
「・・・という事でござるが・・・左之助どの?」
「さ、左之助、でいい」
うわずった声で左之助は答える。
「では左之助、よろしくお願いするでござる」
と、剣心は左之助の前に、紅葉のような手のひらを差し出した。
「え?」
反射的に左之助も、その手に向かって自分の手を差し出したが、いきなりそんな事をしてもいいのかと、あわてて左之助は周囲を見回した。
だが周囲にいる近所の住人達は、誰もそんな左之助を不審がったりしている様子はない。そういえば近頃は握手とか言う、外国人達の挨拶の仕方が流行っているという。確かそれは、親しい間柄になるために、互いの手を握りあうという物のはずだ。
「え、あ、そ、それじゃ・・・」
遠慮無く、と左之助は剣心の手をしっかりと握った。柔らかそうな見かけと違って、以外にしっかりとした手だった。指の付け根にあるのは・・・どうも竹刀だことか言う、剣を持つ者たち独特の跡ではないか?
「・・・あの、左之助・・・」
困ったような剣心の声に、左之助はどうしたのだろうかと見返す。
「その、手を握るのではなく、拙者が言ったのは、左之助がここのところため込んでいる、店賃を頂きたいのだと・・・」
「え?あ?は、そ、そう・・・」
「もともと遅れぎみのところに、以前の管理人が留守にしている間の店賃もため込んで、困っていると薫どのがこぼしておられた。せめて一月なりと、払っていただきたい」
きりりとした声でつめよる剣心の声を聞きながら、こりゃあ第一印象最悪って奴じゃないかと、左之助は心の中で叫んでいた。
最悪なのはそれだけではなかった。数日後の井戸端でのことだ。
「なぁに、あんた管理人さんが、好きな訳」
隣の部屋を借りている、女医者の高荷恵が、呆れた声で言う。
「わ、悪いかよ」
「・・・あんたねぇ」
医者と言ってもまだ半人前と言う奴で、玄斎という医師の庵に出入りして、修行中の身だ。彼女は左之助を見上げながら、哀れそうな顔をする。
「・・・あんた、まぁだ気がつかないの?そりゃ、ここの大家は泣く子も黙る神谷道場の、男装の女武者神谷薫さんの持ち物ですけど・・・あの新しい管理人さんは、一見どんなに華奢で小さくてかわいらしくったって、れっきとした男よ」
「!・・・な、ばかな」
つかみかからんばかりの左之助の前から、ひょいと退いて、恵は長屋の共同井戸の方を指さした。
「馬鹿はあんた。頭冷やしてらっしゃい」
呆然と立ちすくむ左之助を残して、恵はさっさと自分の部屋に戻ってゆく。夕べは徹夜で患者の面倒を見ていたおかげで、ひどい寝不足なのだ。
「なぁん・・・だってぇ・・・???」
衝撃の事実を知った左之助は、これが夢ではないかと疑いつつ、ふらふらと剣心が居るはずの管理人の部屋へと近づいて行く。
と、箒で地面を掃く軽快な音が聞こえてきた。
「おや、左之助。ずいぶん遅いお目覚めでござるな、もうお日様は上にさしかかっているでござるよ」
「か、管理人さん!」
「なんでござる?左之助」
口もきけなくなるほどに、左之助は剣心に見入ってしまった。洗い晒しの着物に袴を履いて、袖を紐でひょいとからげたうえに、片手に竹箒を持った姿の、何という愛らしさだろうか。顔を真っ直ぐに見られていると左之助は気づくなり、あわてて横を向いた。
「いやその・・・なんでもねぇよ。俺ぁ、用がねぇ限り早起きなんざしやしねぇんだ。今日なんかは、早いほうだぜ」
「そうなのでござるか」
にこにこと剣心は左之助に笑いかける。その笑顔は、徹夜明けの太陽よりもなによりも、左之助には眩しかった。
これほどまでに愛しく思えるのなら、相手が男だろうが女だろうが、後家さんだろうが流浪人であろうが、自分にはどうでもいいことなのだと言うことに、やっと左之助は気づく。心の底から惚れられる相手なんて、一生涯に二人とあるものではない。それが今、巡ってきたのだ。握りしめた左之助の拳が、喧嘩の前よりもずっと汗ばんでいる。こんなに緊張したのは、久しぶりのことだった。
「あ」
だが、そんな左之助の決意など気づくはずもなく、管理人の剣心はふらりと長屋に戻ってきた店子の一人に声をかける。
「お帰りなさい、えーと・・・四乃森どの?」
「・・・・・・」
美貌の横顔から、暗い波動が伝わってきた。どうやら今日も商談はまとまらなかったらしい。
一目で育ちの良さがわかる、整った容姿を持った青年は、先月からこの長屋の住人の一人となった、四乃森蒼紫という男だった。その氷のような容貌は、何人もの女性を虜にするほどの美の威力があると見えたが、彼にはそんな事に気を払っている余裕など、全く無いようだ。
「誰だ」
「今日からこの長屋の管理を任せられた、緋村剣心と申す流浪人でござる」
「そうか」
「よろしく頼むでござ・・・」
剣心がみなまで言うのを待たずに、蒼紫は二人の前をするりとぬけて、自分の部屋へと入ってしまった。よほどつらい目に合ってきたらしい。ぱたんと閉まる戸の音も、どこか寒々しい。
「ずいぶん、無口な御仁でござるな」
「いつもああだよ、あいつはさ。元々はどっかのでかいお店の坊ちゃんらしいが、家業が左前になっちまって、こんな所に流れ住んでるって事らしいぜ。時々、昔の丁稚だか番頭だが、妙な奴等が出入りしてる」
「左之助、詳しいのでござるな」
「まぁな。なんだかんだで、俺がここじゃあ、一番の古株だからなぁ。一年以上住み着くやつなんか、ほとんど居ねぇんだ」
「薫どのも、そう言っていたが・・・」
「所帯を持ったり、新しい働き口が見つかったりと、出て行く理由も色々だ。まぁ、こんなせまっくるしい長屋に、長居する奴の気が知るねぇけどよ」
「そういう左之助は・・・何故、ここを出て行かないんでごさるか?」
そう突っ込まれて、左之助はぐっとつまった。まさか、店子代をほとんど払わないでいられるから、などとは口が裂けても言えない。
「それは・・・まぁ、住めば都って言うやつで、俺にとっては居心地がいいし・・・。あ、俺の左隣は空いてて、右隣が女医者に成り立てのほやほやの、高荷恵ってぇ女狐だ。それでよ、一番奥の部屋の・・・」
話をそらそうと必死になって、左之助は長屋の連中の説明を剣心に始めた。
そんな左之助の言葉を、剣心はくすりと笑って聞いている。
「左之助は・・・満で数えると、今年で幾つになるのでござるか?」
いつのまにか、剣心の管理人部屋へ上がり込んだ左之助は、剣心が入れてくれた茶などすすっていた。
「えーと・・・満で数えると、だな・・・確か、十と九か」
「ほう、意外に歳若いのでござるなぁ。背も高いし、喧嘩慣れしている様子では、もう少し上かと思ったが。拙者より一回り下か」
「え」
「さすがに十も違うと、時代を見る目もまた違うものでござるなぁ」
もう少しで左之助は、熱い茶で舌をやけどする所だった。恵に剣心が男だと聞いた時と同じほどの衝撃が、左之助を襲う。どう見てもこの小柄で、女と見まごうばかりの可愛らしい管理人さんが、自分より十も年上だなどとは思えない。今のはきっと聞き間違いに違いない。
「え・・・幾つ、だって?」
「拙者はもう二十と八を過ぎて居るから、店先の古物のような代物でござるよ」
え、ああ、と左之助はただそんな曖昧な返事しか返すことができない。そんな事はない、古物だなんて自分の事を貶めるのはやめろと、どうしてはっきり剣心に言えなかったのかと、この時の事を左之助は後々悔やむことになるのだった。
事件が起きたのはそれから数日が過ぎた夜の事だった。
夜がふけて夜鳴き蕎麦屋の声も遠ざかる、丑三つ時。破落戸長屋にはなぜかまだ、あちこちでぼんやりと灯がともっていた。
宵っ張りなのは破落戸長屋の習慣なのか、四乃森蒼紫の部屋の明かりがゆらぐと、隣の左之助の部屋の明かりもゆらゆらと揺れ、続けて高荷恵の部屋までが、また動く。真っ暗になっているのは、管理人の剣心の部屋ぐらいの物だ。
そんな破落戸長屋の路地を、誰かの気配がすりぬけていった。足音も聞こえない素早さに、尋常ではない気配を乗せてきた気配は、どこの部屋へ入るともなく、その場で立ち尽くす。しんと静まり返ったその後で、ぎょっとするような泣き声が長屋を走り抜けた。
「・・・な、な、なんだ、何事だ!」
「どーしたってのよ!」
「何事でござる!」
管理人の剣心以下、長屋の住人達があちこちから顔を出して、泣き声が聞こえた方向を確かめた。真っ暗闇の真夜中ではあったが、声がしているのは、はっきりとわかった。あれは確か四乃森蒼紫が住んでいる部屋だ。
上着を羽織って飛び出してきた剣心は、蒼紫の部屋に最も近い左之助に尋ねる。
「いったい何があったのでござる!」
「わかんねぇよ、俺もうとうとしてて・・・」
と言われてふと左之助の部屋を見れば、行燈がちらちらと燃えていた。思わず剣心は渋い顔をして店子に文句を言い始める。
「・・・左之助、眠る時には行燈の火はちゃんと消すようにと、拙者はあれほど言ったでござろうが」
「あ、いや、消そうかな、と思っていたところで」
「火事を出してからでは、遅いのでござるよ」
「わかってるって」
「しかし・・・」
「きゃっ!」
恵が小さく悲鳴を上げ、後ろの方からおそるおそる蒼紫の部屋をうかがっていた、長屋の連中がどよめいた。開きっぱなしだった蒼紫の部屋の中から、尋常では無い体格の男が、おぼつかない足どりで姿を現す。
「・・・・・・た、頼む・・・お頭を」
「お、かしら?」
いったい誰のことかと、とまどう剣心に、まるで異国の彫刻のような体つきをした、傷だらけの男は言った。
「蒼紫さまを・・・止めて、くれ・・・」
そういうと、その場にばったりと倒れてしまい、同時に地面と長屋の建物がぐらりと揺れる。
「な、なんでぇこいつ・・・異人の絵に出てくるような身体しやがって・・・」
「四乃森どの!」
助けてくれと言われても、倒れた身体が小山のように入り口を塞ぐ形になってしまった男を、剣心は何とかどけようとするが、びくとも動かない。
「そこにいるのか?四乃森蒼紫!」
「ちっとどいててくれ、管理人さん・・・」
「え?」
左之助は剣心を後ろに下げさせると、気合い一番、そのでかい男の身体を、斜めにひっくり返した。さすがに持ち上げる、と言うわけにはいかなかったらしい。
「すまぬ、左之!」
「へ、いいってことよ」
「蒼紫どの!」
礼の言葉もそこそこに、剣心は得意げな顔の左之助の前を通り過ぎて、蒼紫の部屋の中へと飛び込んでいった。
「やめて、やめてくださいよーぉ、おかしらぁ」
とたんにさっきの泣き声と同じ悲鳴が、中から聞こえる。
「お願いですから、考え直して下さいー」
ひぃひぃと畳につっぷして泣いているのは、子供のような小さな体格の男だった。
蒼紫の背後から、長い腕が伸びていて、彼を羽交い締めにしているようだが、はっきりとその人物の姿は見えない。
「離せ、般若」
「いいえ、離しません!離せばお頭は、腹を切るおつもりでしょう!」
「・・・当然だ。こうなってもなお、生きている事自体が、俺にとっては辱めを受けているも同然。潔く自らの命を断つことこそが、俺に残された唯一の正しき道だ」
「だめですよう、それだけはだめですよう」
また悲鳴が小男から上がる。
いったい何が起きているのか、誰にもわからなかったが、剣心は蒼紫の手に握られている、白く光る刃をめざとく見つけた。
「・・・馬鹿なことは、やめるでござる!」
剣心の一喝にも、蒼紫はかすかな一瞥しか送ろうとはしなかった。
「・・・管理人か。放っておいてもらおう」
「これが放っておけるようなことか!そんな危ないものを振り回して・・・離すでござるよ!」
両腕の自由を奪われたままの蒼紫に近づき、剣心はしっかりと握られている短剣を、その手から引き取ろうとした。
「管理人さん、危ねぇ!」
一瞬の差で剣心に飛びついた左之助の脇を、鋭い何かが飛んでいった。乾いた音を立てて柱に刺さったのは、ぞっとするような太い針だった。
「寄るな。殺すぞ」
「こいつ・・・」
左之助の頭にかっと血が昇り、考えるよりも先に手が出ていた。
「左之助!」
「お頭!」
鈍い音がして、蒼紫の頬に左之助の拳がぶつかる。同時に般若が抱えていた腕がゆるんで、蒼紫に自由が戻った。その隙を狙った蒼紫は、手に持っていた白刃を自らに向けたが、わずかでもその凶刃が自分に近づく前に、今までそこに居なかった者の声が響いた。
「お、おかしらをいじめるなぁ!」
天井あたりで声がしたのは、その場の誰もが聞いた。だが次の瞬間、天井がひどくほこり臭い音を立てて真っ二つに割れると、とうてい人間とは思えないような巨体が、蒼紫の部屋へ瓦礫と共に落下してくる。
「おかしらは、おかしらは、何にも悪くねぇんだよぉ!」
何年もためつづけてきた天井の埃が立ち昇り、呼吸をする事も困難になる。視界など全くきかない。
「おかしらは俺達のために、一生懸命に・・・やって・・・」
おいおいと泣きながら訴える火男の声を聞く者は、誰も居なかった。やっとほこりが静まった部屋の中には、気を失った全員がその場に倒れている。行燈も消えて真っ暗になった部屋の中で動いているのは、天井を破って落ちてきた火男ただひとりだけだった。
その場に居た全員が、かすり傷で済んだのは奇跡だった。あちこちに擦り傷を作った剣心も蒼紫も、絆創膏をくっつけたままで次の日を迎える。だが天井に穴の開いたままの部屋から、蒼紫は一歩も出て来ようとはしなかった。
「・・・いったいどちらが面倒をかけているのか・・・」
焚き物になってしまった天井の瓦礫を片づけながら、剣心は溜息をついていたが、ふと蒼紫の部屋に顔を向けると、思い立ったようにそこへ足を向けた。
それを見ていた左之助も、いったい剣心が何をしようとしているのかと、あわてて後を追う。とはいっても、金魚のフンのように、後ろにくっついて行く訳にもいかない。どうしようかと思案した左之助は、ぽんと一回手を打つと、空き家になっている蒼紫の隣の部屋に、急いで飛び込んだ。
「ここなら、さすがに気がつくめぇ」
ぴたりと壁に耳を当てると、元々薄い土壁の上にあちこちに穴が空いている始末。向こうでの会話は筒抜けだった。
「それで、出ていけとでも?」
「そんな事は言ってはおらぬ。ただ、あんな騒ぎを起こすことになった原因を、話して欲しいだけでござる」
「お前には・・・管理人には関係の無い話だ」
「関係は、おおありでござる。少なくともこの天井の穴には、関係あるでござるよ」
「・・・・・・それは、すまないと思っている」
しぶしぶながらも、蒼紫は認めた。
「あの奇天烈な男たちは、時々ここに出入りしていると皆に聞いた。彼らは蒼紫どのをおかしら、などと呼んでいたが、どんな関係なのでござるか?」
「・・・あいつらは、俺の部下だ」
「使用人でござるか?」
「違う・・・そうではなく・・・」
「蒼紫どのは、何処かの大店の跡継ぎでござったが、商売に行き詰まっておられるとの噂でござるよ」
剣心はけろりとした顔で、巷の噂を蒼紫に伝えた。人の噂などどうでもいいと思っていた蒼紫だったが、意外に世間体には弱かったらしく、顔色が変わった。
「そんな根も葉もない噂を・・・」
「蒼紫どのが、誰にも話してくれぬから、想像ばかりが先走りするのでござる。拙者はこの長屋の管理人なのでござるから、店子に何か困った事があれば、相談に乗るのも仕事なのでござるよ。さ、話してみるでござる」
「仕事・・・か」
ふ、と蒼紫は笑って、やっと膝を崩した。
「今の世の中には、俺達お庭番などという仕事は、求められてはいないのだろうな」
「お庭番、というと・・・幕府の・・・」
「江戸城は明治政府に明け渡され、上様は伊豆の奥に引きこもられた。平和な明治の世界に、俺達のような者は必要ないのだ」
「・・・そうでござったか・・・」
沈黙が流れ、声だけしか聞こえない左之助には、いらつくばかりの時間が流れた。
と、何かが動く気配がして、剣心の声が聞こえる。
「いや、だからといって絶望し、自ら命を断とうなどと考えてはならん。あれほど必死に蒼紫どのを止めた彼らの気持ちも汲んでやらねば、頭領としての責任を果たせぬ」
「だがこのまま主君を持たないで生きてゆくには、あまりにも明治の世は生きづらい。我々も食べ、飲み、暮らさねばならない・・・どうすれば、我々を雇ってくれる場所を見つけることができるのか、俺にはわからないのだ」
「・・・ひとつ尋ねるが」
と、剣心は言う。
「蒼紫どの、何故いまだに主君を求める?主君と家臣と云う形も、すでに過去のものとなった。それでもなお、誰かに仕えなければならないと考えるよりも、蒼紫どの自身が何かを始める長となっても、よいのではないか?」
「俺は、そんな器では・・・」
「拙者は、あれほど仲間に慕われている人物が、人を率いる器ではないとは、とても思えぬよ。もし自信がないというのであれば、彼らの力を借りれば良いではないか」
「・・・奴等の面倒は、俺がみる。手を借りるなど・・・」
「おぬしの自尊心が許さぬか?」
ふっと剣心の声の調子が変わったのが、左之助にもわかった。今までのような穏やかな物言いではなく、厳しい年かさの人間が放つ声だった。
「では、お主は彼らのためと言いつつ、自分の満足のためだけに、彼らを振り回しているだけにすぎぬな。それこそ頭領としての器ではないよ」
「貴様・・・管理人だと思って言わせておけば・・・」
「頭を冷やしてようく考えることだな。いったい、誰が、何のために、何をしようとしてるのか、ということをだ」
左之助の動悸が、激しく鳴り響く。
いったいあの剣心がどんな顔をして、あんな声を出しているのか、想像がつかない。少なくとも自分の前では、一度も見せたことのない顔を、四乃森蒼紫に見せているのだと思うと、いてもたってもいられない焦燥に駆り立てられるのだった。
「・・・とにかく、早くにこの天井の穴は、お仲間の力を借りてでも、修繕してもらうことにしたいのでござるよ」
左之助が壁にへばりついたままでいる間に、いつのまにかいつもの剣心の声に戻って、隣の部屋から出て行く気配がした。這うように土間まで降りて、そっと障子を空かせてみると、長身の蒼紫に見おろされるようにして、剣心が目の前に立っていた。
「・・・どうしてそんな事を俺に言うのだ」
「正しいと思ってしてきたことが、時代の流れで全てが覆され、行くべき道を見失う。時代の迷子のような蒼紫どのが、まるで昔の拙者のようでござるから」
「・・・・・・」
「嘘だと思っても、かまわぬよ。まぁ、ただのお節介な管理人だと思ってほしいでござる」
もし蒼紫が何か、剣心に無礼なことをしたり言ったりしたら、ただではおかないと左之助は拳を握って、今か今かと待ちかまえていたのだが、じっと剣心を見つめていた蒼紫は、そのままくるりと身体を翻すと、黙ったまま自分の部屋へ戻っていってしまった。
「・・・蒼紫どの・・・」
心配そうに呟く剣心の声が、左之助にはひどく悔しかった。
剣心があんなふうに、自分の事を見てくれることなど無い。いまだに左之助は剣心にとっては、下宿人の一人に過ぎない。自分が特別な存在では無いことを思い知らされ、左之助は苦い物を飲み干したように、胸苦しい思いに捕らわれていた。
破落戸長屋には見慣れない母子がやってきて、空き部屋の掃除をして何か荷物を置いていったのは、それからしばらくしてからの事だった。かなり冷えるようになってきた初冬の空は突き抜けるように青くて、それがまたいっそう寒さを感じさせる。
管理人である剣心に挨拶をすると、彼らは木戸をくぐって出て行く。礼儀正しい挨拶の仕方に、士族の気配が漂っていた。
「誰だよ、今の」
遠慮のかけらもない態度で、左之助が管理人の部屋の土間に足を踏み入れる。
「藤田さんと言われる警察の方で・・・何でもさる事情があって、旦那様一人だけでしばらくこちらに住むことになるからと、御内儀どのが生活の下準備にいらしたのでござるよ」
「へぇ、今時の単身赴任と言う奴か」
左之助の喧嘩屋家業は、近頃かなり繁盛しているらしく、生傷が絶えないでいる。剣心の前にひょいと顔を出した左之助の額には、今日も汚れがべっとりと張り付いていた。
「左之助、また・・・」
「どうかしたか?」
「・・・いい加減に、喧嘩屋など廃業したらどうでござるか。お前なら他の仕事でもなんでも、出来るだろうに」
「そうだなぁ、そろそろ潮時かもしれねぇなぁ」
そういう左之助は、剣心が本気で心配し、叱ってくれているというのが嬉しいだけで、喧嘩屋を辞める気など全くない。手のかかる店子ほど、剣心が気をつかってくれると言うことを、左之助は逆手にとっているのだ。
「・・・ほら、鉢巻きを取るでござる。こんなに汚して・・・水で洗わないと落ちようもない」
左之助の汚れ物を持って、戸外に出た剣心の前を、四乃森蒼紫が通りかかる。すれ違う一瞬に、ふっと頭を下げていったのを、左之助は見逃さなかった。
「なんだよあいつ、挨拶するんなら、声ぐらい出していきやがれ」
「いいではないか。あれが蒼紫どのにとっては、精一杯の挨拶なのでござるよ」
どうしてそう甘いんだ、と文句を言いたいのをぐっとこらえて、左之助は青紫の背中に怨の文字を張り付けてみるが、蒼紫は知ってか知らずか、振り返ることもしなかった。
「ふん・・・」
「それに蒼紫どのだって、普段ならちゃんと声ぐらいかけてくれるでござるよ。たぶん今は左之助が居たから、なんとなく罰が悪くて、声をかけなかったのでは・・・」
「なんだと、じゃあ、あいつ、管理人さんが一人で居るときは、声かけてくるっていうのかよ」
「そうでござるよ。蒼紫どのときたら、照れ屋でござるからなぁ」
違うと左之助は断言したかったが、剣心の穏やかな顔を見ていると、どうして違うと思うのか、蒼紫の真意について語る事など、死んでもしたくないと思い直し、黙っていることに決めた。たぶん自分と蒼紫の立場が逆であったとしても、そうすることだろう。
気がつくと剣心は氷のような水の中に、汚れた左之助の鉢巻きを浸して洗い終わってしまっていた。ただでさえかじかむこの寒空の下の洗濯に、剣心の手が真っ赤になっている。
「さぁ、出来たでござる。今日は天気も良いし、きっとすぐに乾く」
「おい、指、真っ赤じゃねぇかよ。そんな鉢巻きなんか、水に浸しときゃいいじゃねぇか」
「なぁに、井戸水の中に手を浸している方が、ずっと暖かいでござるよ」
確かにくみたての井戸水ならばそうなのだが、濡らした手がどうなるかなど、子供でも知っている。
「あかぎれになっちまうぞ。貸せよ、手」
有無を言わさないうちに、左之助は剣心の腕を取り、小さな手を自分の胸元に引き入れた。
「左之助!」
ことのほか暖かい左之助の膚に、剣心は驚いてきつく手を握る。拳の形になった剣心の指を、左之助は一本ずつ伸ばしながら言った。
「俺ぁ、人よりどうも血が熱くてさぁ、冬はこれでなかなか賭場でも重宝されるんだぜ。俺が顔を出すと、火鉢が要らねぇってさ」
「・・・た、確かに、左之助はずいぶん温 い、が・・・」
剣心も左之助に手を取られたというだけで、自分がどぎまぎとしているのに気づき驚いていた。こんな風に左之助を考えたことなどないし、まして左之助だってそんな気などないだろうに。
「左之助が冷たいから、もうやめておけ。これぐらい、湯にでも浸ければすぐに温まるよ」
左之助の手を払いのけ、温もった指を袖の下に隠す。ほんのりと温い指に、左之助の感触が残っていた。
「さて、鉢巻きを干すからおいで。熱い茶でも飲んで温まろうよ」
何度もその指先を握り、また開くのを繰り返しながら、剣心は足早に自分の部屋へと入っていった。
そこに取り残された左之助は、冷たい剣心の指先の感触が残った胸の辺りを、そっと自分の手で確かめる。ひんやりとした膚の辺りに、まだ剣心の指が残っているようだった。
その数日後、冷え冷えとしてきた管理人の部屋の中、かんかんとおこした炭火の上に網を置いて、丸い餅を焼きながら醤油と海苔で食べていると、外から剣心を呼ぶ声があった。
「すみませんが、管理人さんはいらっしゃるでしょうか。今度からここでお世話になることになっております、藤田五郎と申します。ただいま到着いたしましたので、ご挨拶にあがりました」
「はいはい、今行きます」
つと立ち上がって、剣心は土間に降り立つと、何のためらいもなく障子を開ける。がらりと開いた戸の向こうには、記憶の底に沈めたはずの男の顔が、悪夢のように浮かんでいた。
「・・・・・・さ、斉藤・・・?」
「久しぶりだな、抜刀斎」
紺色をした警察官の制服を着た男は、剣心よりも遥か上方に顔があり、かなりの長身であった。ひょろりとした痩せぎすの身体ではあったが、存在感が重々しい。
「妻から話を聞いた時は半信半疑だったが、赤毛の短身痩躯、頬に十字の傷がある男など、そうそう世の中にいるはずがない。やっぱりお前か」
「・・・なぜ、貴様がここに、いる・・・」
「それはこちらが訊きたいくらいだ。俺は警視庁の方から、東京に赴任しろとの辞令が下ってな。仕事のためのアジトとしては、ここが丁度位置的にもぴったりなのだ。偶然というのも、なかなか捨てたものではないようだな」
剣心の唇が、わなわなと震えていた。
「偶然・・・・・・?」
「そう、偶然だ。誰が計ったわけでもない。いったい、お前がこんなうらぶれた長屋の管理人などやっていようとは、いったい昔を知る誰が想像できる?あの、人き・・・」
「やめろ!」
藤田、いや斉藤の声を遮るように、剣心が声を張り上げた。
しんと静まり返った冬の空に、その響きだけが通って行く。
「心配するな、訊かれもしないことをべらべらと、喋る俺ではないからな」
「いったい、どうする、つもりだ」
「つもりもなにも、俺は正当にこの部屋を借り、住むことになっている。お前も自分の役目を果たせばいい。長屋の管理人として、今まで通り仕事を続けることだ」
にこりと笑った斉藤の顔は、一般市民のそれと同じ姿をしている。彼が十年以上前には、京都で壬生の狼と恐れられていた男だとは、その表情からはとても思えない。それほどまでに斉藤は、市民の中にとけ込んでいた。
「では、近所に引っ越し蕎麦でも配ってくるとするか。これは、お前の分だ」
斉藤は剣心の手に、打ち立ての蕎麦の束を、有無を言わさぬままに押しつけた。
管理人の部屋の中から、網の上に置き去りにされた餅が焦げはじめて、焦げ臭い匂いが漂い始めても、剣心はその場を動くことが出来なかった。
剣心の様子がおかしいと気づいたのは、左之助だけではなかった。同時に蒼紫も剣心が、いつも通りではないということに気づいていた。路地を掃き清めながら、時々ふうと溜息をつく剣心の前に、気配も感じさせずに蒼紫は姿を現す。足元に見えた影に剣心が気づいて顔を上げるまで、蒼紫は声をかけることはしようとしなかった。
「蒼紫どの。いつの間に?どうかなさったか?」
「どうかしたと問いたいのは、こちらの方だ。近頃の、その・・・管理人さんは様子が、いつもと違う」
「いや、別に何も。何もないでござるよ」
できるだけ平静を装って答えたが、微妙な息の乱れや素振りの不自然さが、蒼紫に嘘を見破らせる。
「俺には話せない、ということか。確かに俺は無力ではあるが・・・」
「いや、そういう事ではなく・・・たいした訳ではなく・・・」
どう説明したらいいのかと、剣心が困っているうちに、もう一人の面倒な店子が姿を現した。
「そうだな、俺も管理人さんの、たいしたことのない訳ってのを聞きたいぜ。たいした事がねぇってんなら、話してくれるだろ?」
どうやら左之助は、蒼紫が剣心に近づいたのを知って、わざと絡んできたらしい。
「四乃森さんにだけ、打ち明けるってぇのは、どうも良くないぜ」
まるで蒼紫と剣心の間に、割って入ろうとでもするかのような左之助の足どりに、蒼紫はすいと身体を引いた。
「・・・・・・管理人さん、どうしても話したくないと言うのなら、俺はもういい。無理矢理に聞き出そうなどという不作法を、俺はしたくはないからな」
蒼紫の言葉が左之助に対するあてつけであることは、言うまでもない。
「なんだと、俺のどこが不作法・・・」
「俺は何も言ってはいない」
「この・・・」
「やめるでござる、左之助!」
ぴしりと剣心にたしなめられ、左之助は上げかけた腕をあわてて引っ込めた。
「拙者、喧嘩は嫌いでござるよ」
ふいと左之助から視線をそらして、剣心は思わず本音を呟いていた。普段の剣心ならば、やくざな仕事とはいえ、左之助のことを気遣って、決してそんな事を言わないのに、やはりどことなく意識が上の空なのだろう。
いつのまにか蒼紫は自分の部屋に戻り、剣心も竹箒を置き去りにしたまま、長屋の外へと行こうとしている。
「・・・か、管理人、さん・・・」
箒のように一人置き去りにされた左之助は、剣心を呼び止めることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。
「喧嘩は・・・嫌い、かよ、そうだよな・・・」
がっくりと肩を落として、左之助は井戸の前にうずくまる。そういえば、一仕事を終えて帰るたびに、もっと怪我をしない仕事はないのかと、やんわりとだが剣心は左之助に訊いていた。
それをただの楽しいおしゃべりとしか、取っていなかったのは左之助の方だ。剣心はあんなに心配してくれていたというのに。
「・・・嫌われちまったとは・・・なぁ・・・」
「おい、そこの小僧。でかい図体でそんな所に居られると、邪魔で仕方がないんだがな」
「・・・なんだと」
左之助が顔を上げると、警察官の制服を着た男が井戸の前に立っていた。手に桶を持っている所を見ると、水でも汲みに来たらしい。
「うるせぇ、俺は今、虫の居所が悪いんだ。水なら裏から汲みやがれ」
「躾 の悪い小僧だな」
確か先日長屋に越してきた、斉藤と言う名の警察官だったと、左之助は思い出した。そういえば、こいつが越してきた頃から、剣心の様子がおかしくなったのだ。
「斉藤・・・って言ったな。あんた、なんでこんな長屋なんかに居るんだよ。警察の野郎だったら、立派な官舎にでも住めるだろうに」
「ここに住むようにと、上の方からお達しがあったからだ。命令には従わなくてはならんからな」
間違いないと左之助は思った。剣心が沈んでいる理由は、この男が知っているに違いない。上からここに住めと命じられるなどということが、本当かどうかはともかくとして、それを剣心が気にしているということは確かだろう。
「あんた、管理人さんの知り合いなのか?」
「・・・・・・ほう、どうしてそう思う」
「さぁな」
まさか、恋する者の勘だなどとは言えない。
「さて、どうかな。そんな話をすると、緋村が嫌がるぞ。あいつは、過去の失敗は全て無かった事にしたいと、死ぬまで思っているクチだからな」
「どういう意味だ?」
氷のように冷たい水を、井戸の底から釣瓶で汲み出して、斉藤は下げてきた桶にざぁっとあけた。
「なんだお前、あいつの昔の事が知りたいのか」
「・・・」
普段の左之助ならば、こう訊かれて返す言葉など決まっているのだが、剣心の過去が知りたくないのかと言われれば、そんなことはあり得ない。この一筋縄ではいきそうにない男を相手に、何とかして蒼紫よりも先に、剣心の情報を手に入れなければならないと、左之助はついに決心した。
「どうなんだ」
「ああ、知りてぇ・・・昔、あんたと何があったかも、な」
「ふふ、知って、腰を抜かすなよ、小僧」
言葉の意味を取り違えて、ぎょっと目を剥く左之助の顔を、斉藤は人の悪い笑顔で見おろしていた。
皮をむいた蜜柑の香りが、部屋の中に飛び交っている。いったいこれで幾つ目になるのか、ざるに汲んだ蜜柑の小山は崩されて、皮ばかりが剣心の浸る炬燵の脇に残っていた。
ぼんやりと蜜柑の房を口元に運んでいると、障子の向こうから剣心を伺う声がする。
「いるかい、管理人さんよぉ」
「左之助か?」
「ああ、俺だよ」
気がつけばすっかり日は暮れて、薄暗がりの夕刻である。立ち上がるついでに剣心は、行燈に火を灯した。
「どうした、食いはぐれでもしたのか、そんな冴えない顔をして」
「え」
そう言われて、左之助はあわてて顔を押さえた。心の内がそんなにやすやすと外に出ているのかと、驚いたのだ。
「なんだかずいぶんと寒いが、今夜は雪になるかもしれんなぁ」
剣心は隙間から空を覗いて言う。どんよりとした空は、今にも白い物が落ちてきそうなほど雲が重くたれ込めて、長屋の屋根を押さえつけていた。
「どうだ、うちで鍋でも食べてはいかないか?さきほど、向かいから大きな白菜を貰ったのだが、とても一人では食べ切れぬ。だしを取っておいたから、それで白菜と豆腐を煮て・・・」
「え、いいのかい?」
思わず左之助は顔をほころばせた。自分が剣心の所に、いったい何をしにきたのか、すっかり忘れてしまっている。
「まぁ入れ、そんなところで突っ立っていたのでは、冷えるばかりだ」
剣心もまた昼間に左之助を叱った事などけろりと忘れて、障子を後ろ手に閉めさせた。
できたての熱い豆腐鍋は、二人の身体をぬくぬくと暖めてくれる。大きな白菜をまるごと一個も平らげてしまった左之助の前で、火鉢にかかっているのは、鍋の代わりに炭火にかけられた鉄瓶だった。
「ああ、すっかりぬくまったよ。一人で夕餉を食べても、あまりぬくくはならないからなぁ」
「・・・俺、毎日食べに来てやってもいいぜ」
「左之助のような大食らいが毎日通ってきたんでは、どれだけ白菜があっても足りぬなぁ」
からかい半分の剣心の言葉に、左之助は調子に乗って食べ過ぎた自分を恥じた。少しは遠慮をすれば良かったか。
「まぁ、駄目にしてしまうよりは良いが」
炬燵の向こう側にある剣心の顔を見つめながら、左之助はやっとのことで、気にしている事を確かめるための口を切った。
「管理人さん、昔・・・京都に住んでたんだってなぁ。そう言われてみれば、京育ちの赤べこの妙と、同じ言葉が出る時があるもんな」
ぎょっとして剣心は、左之助を見返す。その時の剣心の顔色は、蒼白と言ってもよいほどに青ざめていた。
「拙者が、京都に居た事を、なぜ・・・」
「新しく越してきた斉藤って親父が、俺に色々と吹き込んでくれたんだよ。でも俺は・・・管理人さんの口から確かめたくて」
「確かめる・・・とは、どういうこと、だ・・・?」
「つまり、その・・・」
言い出したのは左之助の方だったはずなのに、それ以上言葉を続けることができなくなった。まるで凍ってしまったかのような、剣心の声と表情に、決して触れてはいけない場所を侵した者の、行き場の無さを左之助はひしひしと感じていたからだ。
斉藤がどこまで話したのか、剣心には見当がつかなかったが、京都での一件を明かしたのであれば、間違いなく左之助はあの事も知ってしまっただろう。若さゆえの正義感と焦燥に振り回されてしでかした、取り返しのつかない自分の過ちも。
「・・・人の口に戸は立てられぬ・・・なぁ。そうでござるよ、確かに拙者は幕末の京都で、人斬り仕事に就いていた。誰を斬ったか、何人を絶命させたか定かではない・・・何しろ、あの騒ぎの渦中であったから」
「・・・維新志士の、一人だったって・・・本当か?」
「昔はな、権力に抗う者にこそ、正義があると思っていたのだよ。だから手を貸した・・・思想など拙者には、どうでも良いことだったから」
剣心の横顔にその時あらわれていたのは、歳を取り何もかもをあきらめてしまった、疲労した人間の姿だった。力を尽くして大きな物を動かそうとし、しかして夢破れさすらう者の、諦念の影が剣心には隠れていた。
「恵どのに聞いたが、左之助は子供の頃に、赤報隊に居たことがあるのだそうだな。ではまた格別に、維新側の者に恨みもあろう。そんな者が長屋の管理人をしているのが許せぬというのであれば、拙者、神谷の主人に暇をもらう事を許しに・・・」
「誰がそんなことしろって言ったよ」
左之助がぱんと手のひらで畳を叩く。
「俺は・・・管理人さんのことが、ただ知りてぇだけだ。だからあいつに頭を下げて話を聞いたんだ。そのあげくに聞いた話が、自分の気に入らねぇ話だからって、うだうだ言う気なんかねぇよ」
「だが、左之助・・・」
「そりゃぁ・・・驚かなかったって言ったら大嘘になるけどよ」
維新からこっち、小さな戦争と小競り合いが続いた時代だ。一旗上げようと戦いに参加した市民は意外に数が多く、何人敵を倒した、幾つ首をはねたと言うことが、日常茶飯事で自慢の種になる時代だ。過去に人斬りだったことなどは、普段の穏やかな剣心からは、とうてい想像が出来ないからというだけの驚きで、忌まわしさなどは誰も感じることは無いだろう。
「じゃあ何で、そんな大手柄立てた奴が、こんな場末の長屋で管理人なんかやってんだよ」
「それは、他に仕事が無いから」
「馬鹿言うな。人斬りなんて出来る奴なら、簡単に仕官ぐらいできるだろうが」
「・・・拙者はもう、政事だの政府だのと言うものに関わるのは、ごめんでござる。そんな大仰なものよりも、拙者はただ平凡な一市民として・・・日常の幸福の中に居たいんでござる」
「・・・小さな幸せってやつか」
「そういう事、でござる。けれど・・・」
と、剣心は深い溜息をついた。
「昔の知り合いの斉藤が現れ、左之助にまで拙者の昔を知られてしまっては、もうそろそろここを去る潮時なのかもしれんなぁ・・・」
「だめだ!」
考えるよりも先に、左之助は身体は動き、剣心の腕をしっかりと握りしめた。
「どこへ行くってんだよ!ここにいろよ、な!斉藤の奴が目障りだってぇなら、俺が追い出してやるよ。おめぇに何か言う奴なんざ、この長屋に置いとくもんか!」
「さ、左之助・・・」
「だから行くな!どこへも・・・」
「わ・・・」
迫ってくる左之助の大きな体を支えかね、剣心は仰向けに畳の上に倒れ込んだ。そのまま左之助もまた、剣心の上に覆い被さるようにして、身体が崩れる。
しんと静まり返った部屋の中に、鉄瓶から上がる湯気の音だけが響いていた。
思いつめた瞳が剣心を見おろしている。
「・・・左之助・・・」
「だめだ」
「左之・・・?」
「俺がどんなに止めたって、行っちまう、つもりだろ・・・そんなの、ぜってぇ駄目だ、許せねぇ・・・」
不意に降りてきた大きな手が、剣心の両眼を覆った。
「左之助っ?」
「俺がこの手を離したら・・・きっと、居なくなっちまうんだ・・・」
もう片方の手が剣心の許しも無しに、胸元を大きく引き剥いだ。女では無いが、いきなりの狼藉に声が出る。
「何を・・・!」
「行かせねぇ・・・」
左之助の重い半身が、剣心の身体を床に縫い止める。すっかり暗くなった行燈だけの部屋の中で、二人の影は絡み合った。
自由にはならない身体の下で、それでも剣心は抵抗を続ける。
「・・・や、やめろ、左之助っ!」
「嫌だ・・・」
かすれてはいるが、はっきりとした声で、左之助は剣心の耳元で囁いた。正気の声だと剣心は、それを聞いて知る。
「俺、俺は・・・最初にあんたを見た時からずっと・・・欲しかったんだ。そんな事は、絶対に出来ないってあきらめてたけどよ、今、今あんた抱かなきゃきっと、永久に俺は・・・」
剣心の視界を奪ったまま、左之助は強引に唇を吸った。意固地に口を開こうとしない剣心の唇を何度もなぞり、自由に動く片方の腕で、上衣を袴から引き抜く。畳にこすれて解けた帯を幸いに、かすかに聞こえる糸が断ち切れる音も聞かないふりで、着衣を闇の中へと放りやった。
「ん・・・んっ!」
女にするのと同じように、口を塞いだまま身体をまさぐると、時折激しく息が乱れる。そこを左之助はすぐに覚えて、何度も指を這わせた。
「・・・」
だがそれほど嫌がっていても剣心は、生娘のように相手の口に噛みつく事はしなかった。ただきりりと口を引き結んで、決して内へは入れようとしないだけだ。
それが自分自身を拒否しているように感じられて、左之助は否が応でも罪悪感をかき立てられる。一瞬だが、ここで手を引こうかとまで思ったが、そうした所で自分が剣心にしようとしたことが、帳消しにされるような事はあり得ない。
ここまで来たならば、毒を喰らわば皿までと、心を決めなければならないだろう。
「俺は、あんたを抱く・・・男だろうが年上だろうが、関係ねぇ、俺はあんたが・・・好きなんだから」
膝で脚を割りながら、左之助は剣心にそう告げた。
と、剣心の抵抗がほんのわずか緩まって、一文字に噛みしめていた唇がやわらぐ。かすかに、頷いたように見えたのは、左之助の気のせいか。
「・・・管理人・・・さん?」
左之助の声に、剣心はいやいやと首を横に振った。
「・・・と、呼んで欲しい」
「え?」
「剣心、と・・・呼んで・・・」
その瞬間、左之助は自分の中にある何かが、堰を切って流れ出したのを感じた。剣心の目を塞いでいた手を外し、剣心の身体にむしゃぶりつく。
「剣心、剣心、剣心・・・!」
「左之・・・」
あらわになった剣心の瞼から、涙が一筋頬を伝って消えた。
戸に噛ませた気休めの心張棒が、木枯らしに吹かれて揺れ、かたかたと鳴る。
裸になった左之助の背中に手を回し、気休めに敷いた半纏の上で剣心はされるがままになっていた。
「あ・・・あァ・・・」
冷え切った畳の目が、押しつけた剣心の頬に食い込む。ざらりとした感触に目を開いても、ほのかな行燈の温もりの中に、左之助の剛い髪の影絵が見えるだけだ。
こんなふうに女にされるのは、ずいぶんと久しぶりだと剣心は思い出していた。まだ右も左もわからない子供の頃、言われるがままに人を斬るのが正義だと信じていた頃、好奇心だけでしでかした、様々な悪行の中にその記憶は封じ込まれている。
後悔はしないで済んだが、だからといって何が残った訳でもなかった。ただそれを知った、というだけに過ぎない。
ぴちゃ、と濡れた音を立てて、左之助が舐めている。
「ふ・・・」
ぞくりと背中に心地よい痺れが走った。膝が知らずに曲がって、左之助の身体を抱え込む。この大きな可愛らしいものが、まるで子供のように自分を欲しがるなどと、剣心は考えたこともなかった。
「左之助・・・」
日頃の荒事で鍛えた左之助の腕を引いて、剣心は身体の向きを変えるようにと促す。
「え・・・?」
何をしようというのかと言う声で、左之助は顔を上げた。
「拙者にも・・・左之助を、おくれ」
欲しいのは左之助だけではない、ここに居たいと願っているのは、剣心の方なのだ。どこかへ行きたいなどと、剣心はかけらも思ったことはなかった。できればこのままずっと、この長屋に影のように住み着いてしまいたい。左之助が心の底から引き止めようとした、あの声が嬉しかった。
自分との身体の大きさの違いを、膝を曲げて合わせた左之助のものを、剣心はいとおしそうに両手ですくい上げると、舌を寄せた。ちらちらと舌先で煽った後、ほぼ屹立しているものを、剣心は思いきって口腔に含んだ。
「・・・うっ・・・」
低く左之助が呻く。
「すげ・・・焼けちまいそうだ・・・」
とても全てを含みきることはできず、喉の奥に触れかけるのを、舌の付け根でうまく留めて口元で扱く。
左之助もまた剣心のものに、奉仕を始める。湯の沸くかすかな音に混じって、猫が水を飲むような、静かな水音が重なりあっていた。
「・・・んん・・・はっ・・・」
たまりかねて剣心が先に口を外した。わなわなと震える両手で、左之助の衣服を握りしめる。
「左之、さ・・・ぁぁあっ!」
引き絞られるような悲鳴を飲み込んで、剣心は全身を硬直させる。途端に左之助が解放した剣心から、遂情の証が掌に吐き出された。意外にも大量に手を濡らす剣心の精に、左之助は思わず声を漏らす。
「なんか・・・すげぇ、出やがんのな・・・」
「やめ・・・」
「しばらく、ご無沙汰だったのかい」
「左之・・・」
恥ずかしそうに身を縮める剣心を抱きすくめて、左之助は掌に残った剣心のものを、冷え切る前に後門に押しつけた。
「気にすんなよ、俺だって・・・もう我慢できなくってよォ、今にも漏らしちまいそうなんだ・・・けど、おめぇとひとつになるまではって・・・こらえてんのさ」
「ひと、つ・・・」
剣心の丸い膝を左右に割って、左之助は腰の下に腕をさし込むと、斜め上に持ち上げる。ぼんやりとした輪郭の中、指先で確かめながら左之助は、十分に濡れそぼった自分自身を、剣心に寄り添わせた。
「ゆっくり、するから・・・な・・・」
「う・・・ん・・・」
やんわりとした先端が触れると、剣心は挿入ってくる衝撃を予想して緊張を見せた。どんなに優しくされても、そのために有るのではない場所を使おうと言うのだ。苦しみがあっても仕方がない。
「・・・ぅ・・・っ」
圧迫される感触と、押し開かれる感覚が同時に剣心を襲った。硬く強張った左之助が、次第に自分の内側に入ってくる。
それがまるでとてつもなく巨きな物に感じられて、剣心は無意識に左之助の腕の中から逃げようともがいていた。
「だ、駄目だ・・・そんなモノ、入ってきたら・・・壊れる・・・」
「う・・・」
「左之助ぇ・・・やめ、・・・てくれ・・・」
か細い剣心の懇願が聞こえていないのか、それとも聞こえない振りをしているのか、左之助は剣心との交接いを止めようとはしなかった。それどころか、いっそう身体を奥へと進めて、剣心の内深くへと身体を埋めようとする。
「・・・苦し、い・・・もう、無理だ・・・」
「あ、ああ・・・どうやら、そうみてぇだ・・・な」
身動きすらできないほどに、締め付けてくる剣心の壁に耐えながら、左之助は剣心に告げた。
薄紙一枚たりとも、この二人の間には入ることなどできそうにない。それほどまでにみっちりと、左之助は剣心の中に居た。全てが剣心に包まれていることがわかる。
「あ、さ、左之ぉ・・・」
「剣心・・・」
どきどきと脈打つ互いの肉体を感じながら、激しい息づかいのまま、二人は口を吸いあった。
「ま、まだ痛ぇか?」
「ただ、苦しい・・・それだけ、だ・・・」
実感する痛みではなく、いつまでも消えない辛さが、剣心を捕らえて離さない。
「まだ・・・ほんの少し、入れてるだけなのに・・・なぁ・・・」
「無理を、しないでくれ・・・拙者を壊す気、か?」
「ああ、いっそ壊しちまったら、俺だけのモノにできるかもしれねぇと思うけどよ・・・」
「恐いことを・・・左之助・・・」
子供の情の深さに、剣心は脅えながらも嬉しく感じた。少なくとも左之助は、心の底まで本気だ。許したらきっと、どこまでも自分を欲しがるに違いない。
「どうしたら、あんたを俺のモノにしておける?こうして毎日抱いて・・・抱いていれば・・・」
「あ、あ・・・左之・・・」
「内の内まで、俺で満たせば・・・」
無理だと告げた場所から、左之助がゆっくりと進入を始めた。時間をかけて身体を作ったためか、最初に突き込んだ時よりも緩やかに、左之助は剣心に侵入してゆく。
「俺のモノに・・・なるのかい・・・」
「あー・・・」
かすれた声が剣心から吐き出され、ついに左之助は自分自身を剣心に飲み込ませた。やや斜めに持ち上げた腰が、自然に膝を丸く曲げさせて、左之助の腕に当たる。
二人分の潤みが、外まで染みだしてきていた。
「なぁ・・・どうなんだよう」
交接の時の手加減を心得て、緩く浅く突き上げ続ける左之助に翻弄されて、剣心はもう問いに返事が出来るような状況ではなくなっていた。
濡れた音を立てて動く左之助に、何もかもを奪われて行く。
「あ、あぁっ・・・あ、あ、あーっ」
喉が枯れるのではないかと思うほど、深く荒い息を吐き出し、だが声は必死で押さえ込んでいる。今にも窒息しそうなほどの乱れた呼吸で、剣心は左之助に抱かれていた。
打ち込まれた熱い楔が、剣心の心の箍を壊そうとして、暴れ回る。
何もかも忘れてしまいそうな、そんな熱情を左之助から受け取って、剣心は今だけはただの一個の人間として存在できそうだった。
腰を打ちつける左之助の腕が、剣心を固く抱きしめる。剣心もそれに答えるかのように、左之助の背中に腕を回したのだが、広い左之助の背中に剣心の腕はやや短かすぎた。回りきらずに途中で止まってしまい、中途半端にかじりつくような格好になる。
「・・・俺も、もう気が近いぜ、内で、やってもいいかよ・・・」
「あ、あぁ・・・も、どうにでも・・・」
足掻く剣心の脚を引きつけて、左之助は思いのたけを剣心の中へと叩きつけた。
「っ!」
熱い左之助の迸りが、剣心の内壁を伝って、身体の芯にまで染みていった。抜かないままに居るためか、腹の奥までが全てそれに浸されたような気がする。
「・・・あ、うぅ・・・」
「なんとも、あったけぇな・・・ここはさぁ・・・」
「左之ぉ・・・」
「中身までふかふかに、なっちまいそうだぜ・・・」
達したはずの左之助だったが、どういう訳か萎える気配は全く無く、そのまま剣心の中でまた硬さを取り戻し始めている。
左之助は剣心の身体を抱え上げると、床に胡座をかいた自身の上に据えた。
「ひ・・・っ!」
内に填まっていた左之助の向きが変わったために、剣心は口にも出来ない衝撃を受けて、全身を細かく震わせた。
「や・・・ぁ・・・」
「もっぺん、いくぜ」
身体の上に抱え込んだ剣心の身体を、左之助は前後に揺すぶり始める。
「ひぁ、あ、あっ!」
「悦すぎだ・・・ぜ、あんた、管理人、さん・・・」
「左之、さっ・・・のすけぇぇっ!あ、抜ける・・・底が、抜け・・・て、しま、うぅっ」
填められたままの形で、がくがくと腰をつかまれ、剣心は人形のように突き動かされていた。背中が海老のようにしなり、両腕が床に投げ出される。いつのまにか剣心のものも、また勢いを増してきつつあった。
「は、うぅ、ん・・・んぅっ・・・」
「中で・・・なんか、音がしやがる・・・俺がさっき出した奴、か・・・」
「いやぁ・・・あ・・・」
「おかげで、滑りが・・・よすぎるぐれぇだ、けど・・・よ」
左之助が言うとおり、もう剣心は苦痛を感じる隙など無くなっていた。ぬらつくものが、裏門を繰り返し出入りしているうちに、熱い高まりがどこからともなく忍び寄ってくる。それがいつか身体の内側で、はじけ飛ぶことを、剣心は予感していた。
「あぅ・・・く、はぁっ・・・あ」
「いくんなら、いっちまえ・・・俺に、かまうなよ」
「さ、左之・・・も、だ・・・めだ・・・ぁ」
不意に左之助の膝の上で、剣心は全身を震わせた。吐き出される潮と共に、内できりきりと締め上げられる感覚に、左之助はとても耐えられない。
たちまちのうちに左之助もまた、剣心の中で再び達するのだった。
初雪は積もらないと言われているが、その日の早朝にはまだ雪はうっすらと残っていた。昼になるまでには溶けてしまうはずの、ほんのわずかな夕べの残りだ。
真っ白な息を吐きながら、長屋の住人が早番の仕事に出て行くのを、剣心は薄く開けた戸の隙間から眺めていた。いつもならば、とうに長屋の前を掃いている時間だというのに、今朝は起きることもできなかった。
昨夜の左之助との激しい交歓の片鱗が、剣心の身体の奥底にまだ残っていて、うずうずと芯が疼く。
いくら年若い左之助の情に応えたからといって、あれほどまでにあからさまな痴態をさらすことになろうとは、考えてもいなかった。あんなに乱れておいて、求められたから返したまでだなどと、いったいどの口が言えようか。
「どうしよう・・・か・・・」
黙って出ていこうかと思っていたのに、交わした情が剣心の後ろ髪を引く。
「人斬りが、長屋の管理人など・・・笑い話にもならんというのに」
苦笑を浮かべながら剣心は、真っ白になった炭をつついて、奥の方にまだ残る織火を掻き出し、新しい炭をついだ。真っ黒な炭にやっと火が渡る頃、ばたばたという騒がしい気配が近づいてきて、がらりと剣心の部屋の戸を開けた。
「か、管理人、さん、居るか!」
晒しもそこそこにまき散らした左之助が、息を切らせて立っていた。
「左之助」
「・・・い、居た・・・ぁ」
よほど慌てていたのか、そのままその場にへたへたと座り込む。
「良かった、俺はまた・・・どっかに、行っちまったんじゃねぇかと思って・・・」
「まさか、どうして」
「だってよう、いつもならとっくに外の掃除でもしている時刻なのに、姿が見えねぇからよう・・・」
「莫迦、昨日の今日で、いつものように出来るものか」
「・・・え」
剣心はかすかに頬を染めて、左之助から顔を背けた。だがうつむいた顔は、どうしても嬉しさとおかしさで緩んでしまう。
左之助が心配のあまり、身支度もそこそこに飛び出して、自分を捜しにきてくれるなどと、思ってもいなかった。きっと一晩だけの、激情ゆえの過ちに違いないと、自分に言い聞かせていた剣心に、考えの間違いを示してくれる。
「まったく、左之助は若いから良いが・・・拙者はもう・・・あんなにされては、堪らぬというのに・・・」
「あ、あ・・・」
わたわたと左之助は周囲を伺うと、戸を閉めて勝手に剣心の部屋に上がり込んできた。
「いや、その・・・すまねぇ、騒がせちまって。俺はその・・・」
「阿呆」
つれない素振りで剣心は、左之助に背を向ける。
「・・・眠っているうちに帰りおって・・・。目が覚めた時に誰も居ない心地悪さなど、お前にはわからん」
「だ、だってよ・・・管理人さんちから朝帰りなんてしたら、なんて言われるか」
「そんなもの」
くるりと振り向いた剣心の目は、心を決めた者の色をしていた。
「言いたければ、言わせておけ。左之助は特別だ。いつここに来てもいい、いつでも・・・来るがいい。拙者はずっとここにいるから」
「ほんとか?」
「ああ」
「どこへも、行かねぇな?」
「行かない」
歓声を上げた左之助の声に、何があったのかと隣の者がちらりと覗く。
「左之助、騒ぐと近所に迷惑だから・・・」
あわてて剣心は左之助を止めるが、それぐらいでは何とも仕様がない。
「左之、左之助」
「ずっと管理人で居てくれよ、なぁ剣心、約束だぞ」
朝からこんなに大声で騒いでは、回りにもう筒抜けだ。寝ぼけ眼の恵を筆頭に、朝の遅い連中までが、ぞろぞろと起き出してくる。
「おはよう、管理人さん・・・。どしたの、左之助、あんたにしちゃあ、ずいぶん早起きじゃないの」
「なんだよぉ、俺が早く起きてちゃ悪いか」
「ふぅん、道理で雪なんか降った訳よね」
「なんだと・・・」
やれやれと剣心は肩をすくめて、いつものように竹箒を持って長屋の表へと歩き出した。
何があろうと、管理人としての仕事はやらなければならないと、剣心は信じている。
さんざん恵と悪口を投げつけあった後、はっとして左之助が振り向くと、あの蒼紫がかすかに表情を見せて、剣心に丁寧な挨拶を差し出していた。
「お早うございます・・・」
「お早う」
日影に残る雪を掃き寄せながら、剣心は蒼紫に向かって頭を下げる。
「もう、大丈夫でござるか?」
「ああ、自棄になるのは、止めた」
「それは良かったでござる・・・あきらめれば、何もかもそれで終わりでござるから・・・」
「け、剣心」
誰にでも優しい声をかける剣心に、左之助は不安になる。もしかして自分を受け入れてくれたのは、あの優しさゆえの出来心なのかも知れないと。
「何だ、やけに喧 しいな。何事だ」
と言いながら長屋に戻ってきたのは、夕べから夜番に出かけていた斉藤だった。
「ああっ!斉藤・・・てめぇ」
「なんだ小僧、相変わらず緋村の腰巾着か。俺が話してやった事は、もう忘れたか」
「ふん、管理人さんの昔がどうあれ、今となっちゃそんな事ぁ、懐かしいだけの昔話だろうが。これだから年寄りは、昔はああだこうだと、やけにうるさくって仕方ねぇ」
「ち、ガキが・・・」
睨み合う二人の事など知らぬげに、蒼紫と剣心は穏やかな朝の会話を続けていた。
「とにかくなぁ、剣心はもう、どこへも行きゃあしねぇよ。ずーっとここで、長屋の管理人をするんだぜ。出てくとすりゃ、お前の方が先に決まってらぁ」
勝ち誇ったような左之助の物言いに、斉藤は顔をしかめた。どうしてこう若い男というものは、何もかもを勝った負けたで決めようとするのか。
「ああ、そうか。それは良かったなぁ。だが俺は夜なべ仕事の明けでな、お前らに・・・」
「ああっ、蒼紫、てめー、剣心にあんなに世話かけといて、今さら親しそうに話すんじゃねー」
斉藤の話など最後まで聞く気はないと言わんばかりに、左之助はすぐさま剣心の後ろに張り付いて、蒼紫を追い払おうと画策する。
「・・・つきあってられるか」
鼻白んだ斉藤は、不愉快そうな顔でその場から離れ、自分の部屋へとさっさと戻っていった。
「左之助、ここはいいから」
「駄目だ、今日はゆっくりしてろよ。俺が代わりに掃除してやっからさ」
「左之助ー」
困り果 てた、だが嬉しそうな剣心の声が、冬の空に響いて行く。空の黒雲は雪に溶けて流れ、今はもうただ抜けるような青空だけが、東京の街を包んでいた。
終