かまわぬ

ひょんな事から剣心が、ずっと彼を想ってきた左之助と、初めて身体の交わりを経験してから、すでに数日が経っていた。
うっかりしていたが、本当に自分は初めてだったのだなぁと、思い出すたびに乱れぬいたことが恥ずかしく、顔を合わせるのも照れくさい。
それなのに埃 の立つ横町を歩いている間にも、剣心の唇から笑みがこぼれる。自分がいったい何に対して微笑んでいるのか、はたと気づいた剣心は思わず耳の辺りを熱く火照らせた。
 刀の柄を握りしめ、一人ごちる。
「年甲斐もない・・・」
だがそう言いながらも、唇の端に漂う上機嫌は隠しようもなかった。
側に寄らせもせず、考えることもしなかったアレが、こんなに良いことであったとは。何かひどく崇高にして同時に汚らわしい物であると信じ込んでいた自分が、滑稽に思えるほどに、交わりはけして重苦しい物ではなかった。
それどころか、好ましい相手の気持ちを、これほどまでに引きつけることのできた自分自身が、訳もなく誇らしく思えて、ついつい頬が緩むのだ。
薫に言いつかった買い物をしに、東京の町へと出た剣心は、ふと気がつくと同じ事を考えて続けている自分を見つけて苦笑する。
空を向いて押さえた掌 の下の唇は。あいも変わらず笑っているだろう。
「まずいなぁ・・・」
こんな隙だらけの所に、何か起きでもしたらどうしようか。不意に気持ちを切り替えるのは、なかなかできることではない。
だがそんな杞憂など、今の剣心にはくだらない事にすら思える。ふと胸の内によみがえり、また消えては現れる一人の青年の顔が、剣心の笑みを誘うのだ。
思い詰めたように迫る、若い色をした左之助の顔が、夢中になって笑う左之助の顔が、いつになっても剣心の前から消えない。
「あんなに、いいものだとは・・・思わなかったから・・・なぁ」
左之助の思いを見て見ぬふりをしていた時間が、今から思えばもったいない事をしていたと思う。最初から左之助に応えていれば、どれほど長い時間を左之助と過ごせたことか。
ありていに言えば恐かったのだが、いささか軽んじていた体もある。あんなものにうつつを抜かすような奴は、ろくでもないと言う世間の声を、剣心もまた鵜呑みにしていたのだ。
惚れた相手と激情を共にすることが、どれほど心地よいか、それはそうした者にしかわからないことだ。互いに弱みを見せあいたくなるほどに、心根を触れあわせたいと思ったなら、我侭でさえも可愛らしい。
だがいつまでも、こんなに捕まっていてはまずいと、剣心はときおり我に返って、自分を叱ってもいた。
「いやいや、こんなことばかり考えていてはいかん。これではまるで、色事を覚え立ての若造のようだ。拙者はこれでも人生の半ばを過ぎた、言うなれば本詰か年増盛り。今さらこんなことに気をやっていては、自堕落に墜ちかねん」
しかし色事に関しては、自分が若造と何も変わらないことを、すっかり棚に上げて剣心はそう云った。
木枯らしが足下を吹き抜けてゆく今日は、まだ春が遠い所にあることを教えている。
 灰色に煤けた空は今にも泣き出しそうで、風景もぼんやりと暗い。
「また雪になるでござるかなぁ・・・」
 見上げる空を切るようにして、柿の枝が斜めに剣心の視界を遮っていた。いかにもな冬の残り柿が、しおれた色をして枝にしがみついている。
 冷たい煎餅布団で寝るのには慣れているが、こんな夜には何か温かな物を足下に入れて眠りたい。猫でもいると重宝なのだが、生憎と神谷の屋敷に猫は住んでいなかった。
そういえば、左之助と寝た時、と剣心は思い出す。
上掛けの布団などあって無きがごとしだったと言うのに、寒さを感じることはなかった。左之助の掌や胸はひどく熱くて・・・。
「ああ、また拙者は・・・同じ事を考えている。少し変だぞ、剣心」
あれから二人きりになる機会は無く、それについて話すこともない。ただ、何となく目と目で合図を交わしあいはしたが、浮かれたような気分は一向に落ちつかなかった。
このままずっと、アレのことばかりを考えるようになるのではないかと、剣心は自分を恐れる。あまりにも避け続けていたがゆえに、いったん触れると止めどが無くなる者がいるという。まさか、自分がそれではないかとさえ、剣心は考えるのだ。
「もう、冗談ではない。こんなことばかり考えるのは、みな左之助のせいだ。あいつめ、拙者をこんなに悩ませておいて、どこへ行った、ろくでなし」
持っていきようのないとまどいを、とにかく誰かにぶつけないではいられない。だがこんな話ができる相手など、左之助以外にいるはずもなく、剣心はここ数日ちらりと顔を見せたきり、神谷の屋敷に足を向けない左之助に向かって、悪態をついていた。
「破落戸長屋は・・・こちらの方だったか・・・」
まだ薫に頼まれた味噌も買ってはいないと言うのに、ふと剣心は辻の辺りで後を見た。
忙しげに行き交う東京の人々の間に、今にも左之助が現れそうな気がして、剣心はいつのまにか行くべき道を違えていた。

どこからともなく赤ん坊の泣く声やら、昼から経文を読む声が錯綜する。
古ぼけた小屋が立ち並ぶ、通称破落戸長屋の入り際には、障子いっぱいに左と書かれた戸があって、主の名前を主張していた。
ここには左之助が住んでいる。
いくら風来坊とは言えども、ねぐらは定まっていて、行くところが無ければここに帰ってくるはずだ。
すでに何度か訪れた事はあるはずなのに、久しぶりに来るせいか、それとも剣心の心持ちが変わったためなのか、ぴたりと閉じた戸が、特別に大きな物に思えてならなかった。
夕べの冷たい雨で、破落戸長屋の細い路地はぬるりとした泥にまみれていた。左之助の部屋の正面にも、行き交う人が作った窪みに水がたまって、剣心を遮るように両手を広げている。
そんな足下のぬかるみを飛び越えて、左之助の部屋の前に立ってはみたが、これといって用のない身を思い出して、剣心は逡巡した。
左之助のことだ、決して帰れとは言わないだろう。
しかし、何か用かと聞かれたら、どう返せば良いのだろう。八百屋のお七じゃああるまいし、恋しくて逢いに来たなどと、素面で言えるはずもない。
聞かれる前に剣心は、いくつもの答えを自分で想定し、どう答えるかを決めてから、左之助の部屋の戸に手をかけた。
からりと戸が開く。
驚いたような左之助の声が返ってくるかと思いきや、しんと静まり返った風だけが、部屋には残っていた。
冷たく冷えた空気が、主の留守を剣心に伝える。
「・・・いないのか」
足を踏み入れるや否や、部屋にこもった匂いが剣心の鼻腔をくすぐった。人間が暮らしている部屋の持つ、独特な生命感という物が、そこいらじゅうに満ちているような気配だ。
そしてその中には確かに、左之助の匂いもあった。
一瞬にしてそれがわかってしまうほど、彼らは近づきあったのである。たとえそこいらの街角ですれ違ったのだとしても、ふと振り向いてしまうほどに、剣心と左之助は互いの匂いを覚えているはずだ。
草履の足を前に出すと、爪先にこつんと湯飲みが当たった。
何もない訳ではないが、これといった物の無い部屋には、全てに左之助の匂いが染み着いているようだった。
「留守とはなぁ」
剣心は知らないだろうが、それほどに乱れた世では無い印に、こうして鍵もかけずに部屋を放り出していっても、盗人に入る者など誰もいない。たとえ入ったとて、金目の物など何もない部屋ではあるが、そのころの日本は、それでもまだそういう気質を持っていたのだ。
狭苦しい土間に草履を脱いで、左之助の居ない部屋に上がり込むと、爪先から凍りそうな畳の上を歩いて、左之助が敷きっぱなしにしている、せんべい布団の上に座り込んだ。
行儀が悪いのは承知の上だ。こんなことをする者は、まともな育ちではなかろう。
だがそれでも、剣心はそこに座りたかったのだ。
ひんやりとした綿の冷たさが、着物を通して伝わってくる。
「今日のうちに、帰るのか帰らぬのか・・・いや、どこに行ったのか」
 左之助はいったいどこで何をしているのだろうかと、剣心は天井を仰ぐ。
雨漏りの染みらしい跡が、あちこちに見えた。
「左之助・・・」
ぶる、と寒さに身震いをした剣心は、無意識にその場にあった布団を身体に引き寄せた。
「あ」
とたんにふんわりと、左之助の気配が身体を包む。
布団の中に留まっていたのは、最後までそこに居た物の残り香であった。
「左之・・・助」
名前を呼ぶだけで、胸の内がしんみりと痛む。
そのうちにまた会えるだろうとは思うのだが、会いたいと思った時に会えないのが、罰のように思えてならない。
「左之・・・」
ゆっくりと剣心はその場に半身を俯 せる。
床に当たる大刀を腰からはずし、片手を袴の割れ目から差し込んでいった。
「・・・」
何をするのだ、と剣心の理性が驚きの声を上げた。
まだ天に日は高く、往来には人がいる。もし誰かが不意に入ってきたなら、どう始末をつける気だ。それよりもお前がしようとしていることは・・・。
鋭く自分を諌める声が、剣心の意識の中を通り抜けたが、着物の下に割り込んだ手は、一向に止まろうとしなかった。
剣心の脳裏に、あの時の事がまざまざと思い出されてくる。
寄り掛かってくる左之助の重み、掌に伝わる早い鼓動、そして若さにはやった荒い息づかい。
前のめりに布団の上に身体を伏せた剣心には、もう周囲の何物も見えはしない。ただ左之助の眠る夜具があるばかりだ。
この腰を抱き背中に回す左之助の腕が、泣きたいばかりに今欲しい。体中をまさぐられる手は、決して不愉快ではなかった。それどころか、早く自分に触れて欲しいと、焦りながらしがみついていった。
あの時、これほどまでに、自分は人の温みに飢えていたのかと、我ながら驚いたものだ。
二十歳を過ぎた頃には、剣心もひとしきり獨楽に耽ったものだが、流石に近頃はそういう血気にも脅かされなくなってきていた。そろそろ欲が収まってくる頃かと、半ばほっとし、歳を自覚するようになっていたというのに、このていたらくだ。
「左之・・・助・・・」
わななく唇で、剣心は呟いた。
思考が止まって、全てが身体の一点に集中していた。
身につけた下帯の間に入り込んだ指が、己れのものを握りしめている。
全ては左之助のせいだ、と剣心は訳もなく人を恨んだ。 弾力のある張りつめた肉の勢いが、やんわりとそれを包んだ皮膚の上からでも、容易に確かめられる。頃良く握ったみずからの掌 が剣心の背中を踊らせた。
丸い指の先が、先端の小さな祠を探り当てると、淫水がすでに先走り出ているのが知れた。ぬらめくほどのこぼれように、思わず手が滑って爪が当たった。
「んっ・・・」
その鋭い刺激に、剣心は身震いする。
指の下でもたつく膚を引き下げると、最も敏感な部分があからさまになる。袴の下で見えるはずはないのだが、すでに激しく勃えたっていることは、手の中の感触でそうとわかっていた。
寝間でいつもそうしてきたように、剣心は自分のものをゆっくりと摺り始める。
あまりの快楽さに、思わず呻き声が漏れた。
咄嗟に剣心は片方の手で、無意識の呻きが響かぬようにと、自分の口を固く押さえ込む。
だが押さえれば押さえるほど、身の内を走る感覚は強まり、手銃を続ける手はいっそう動きを早める。咽がびくびくと痙攣して、剣心の身体は硬直と弛緩を繰り返した。
いかにも激しく手が上下すると、不意に先端から熱い物が噴き出した。
吐淫に指を濡らし、伝い来て手のひらに溜まるままにさせて、剣心は身動きもとれないほどの快さに、ただ息を弾ませていた。

ぼう、として剣心は左之助の長屋の部屋に座ったまま、焦点の合わない視線を空にさまよわせる。
いったい自分は何をしてしまったのだろうと、信じられないような思いのまま、時間だけが過ぎていった。
左之助に会いに来た、それは間違いない。
だがどうしてまた、こんな事をしでかしたのか。何もこんな時に、玩策に陥らなければならない理由など、無い。
「浅ましい・・・」
己れを罵る声が震えた。
剣心の背中に走ったのは、自己嫌悪と恐れが混じりあった、大きな不安であった。
やはりそうなのか、艶道と言われる肉体の快楽を遠ざけていたのは、これほどまでに自分の心が弱かったからなのか。一度味を覚えてしまったなら、阿呆のようにそればかりを考えるようになる、淫乱な性状であったからか。
左之助のことを思ってここに来たつもりだが、判らなくなっている。もしかすると、欲しいと言って求めてくるものがいれば、自分は誰でも良いのではないだろうか。
この切なさを慰めてくれる者がいれば、それにすがりついてしまうのではないか。
ぞっとする考えにたどり着いた剣心は、青ざめた顔で立ち上がろうとした。
だが良くも悪くも行き着いた身の膝は、がくりとばかりに力を失って、剣心を支えてはくれない。
無様に転びそうになり、剣心は床に両手をついた。
粘こい物が乾いて、手の甲の辺りに今だこびりついているのを見た剣心は、あわてたように土間に降りると、汲み置きの瓶を開けた。
柄杓で凍えるような水をすくい上げ、ざぶりと手に叩きつける。
切るような水の冷たさが、かえって心地良かった。
「もう、帰ろう。いつまで居ても、左之助が戻るという保証は無い・・・」
破落戸長屋を訪れた時の、うわずったような気分は、もう剣心には無かった。ただ惨めになるために、ここに来たような気がして、後悔ばかりがずきずきと胸を痛ませる。
濡れたままの手で、剣心が障子に手をかけた時だった。
「おや、左の字。久方ぶりのお戻りだねぇ」
「惚けてんじゃねぇよ、婆ぁ。朝方会ったばっかりだろうが」
ぎょっとして剣心は身をすくませた。咄嗟に四方を見回したが、隠れる場所などあるはずがない。
「近頃ぁ、あんたの喧嘩商売もあがったりかい?客人も来なくなったようだが」
「何度言ったらわかんだ、この耄碌婆ぁ。俺はもう、喧嘩屋は廃業したんでぇ!」
「おや、そうだったかいね。他に取り柄も無いあんたが、喧嘩屋を辞めるなんて、思ってもみなかったもんでねぇ」
「言ってろ」
ちっと舌打ちをして、左之助は左の字がついた障子に手をかけた。
がたがたという鈍い音がして、片側の障子戸が開いて行く。土間の端に身を寄せていた剣心は、どうすることもできずに、その様子を見ていた。
「ったく、しょうがねぇ婆ぁだぜ・・・」
後ろ手にぴしゃりと障子を閉めた左之助は、顔を上げる間も無く、部屋の中の人の気配に気づいた。
「お、あ・・・剣心?」
驚きととまどいと嬉しさが、いちどきに左之助の顔に浮かぶ。
「おめ、どうして今頃、いやそうじゃなくて、その」
土間の隅に隠れるようにしてたたずむ剣心へ、左之助は近づこうとした。
障子戸から差し込む明かりの中に、悄然として佇 む剣心の姿は、まるで幻のようだった。大きな目を見開いたまま、左之助を見上げている。
「まぁ、とにかく上がれよ、茶の一杯ぐらい・・入れてやっからさ!・」
「いや・・・拙者は、もう帰ろうかと・・・」
だが剣心は左之助から視線を逸らし、いたたまれない気持ちを声にあらわした。
「何言ってんだよ、せっかくここまで足運んでくれたんだ。少しぐらい・・・」
と言ってから左之助は、何かに気づいたようにぴくりと視線を上げた。
「・・・ん・・・?」
かすかに左之助が鼻を鳴らしたのを、敏感に察した剣心は、火に炙られるような恥ずかしさに、全身が襲われた。
ここで自分がさっき、何をしていたのか、左之助に気づかれた、と剣心は悟ったのである。
「剣心!」
 左之助が止める間もなく、障子を開けた剣心は、部屋から飛び出す。
「待て、おい剣心っ!」
すぐに後を追おうとした左之助は、背後に何かが置き去りにされているのに気づいた。
左之助の夜具のすぐ脇に、鉄拵えの大刀が外してある。内を見るまでもなく、これは剣心がいつも腰に挿している逆刃刀に違いなかった。
そんなものまで忘れてゆくほどに、剣心は激しく動揺していた。逃げ出してどうなるものでもないというのに、そうしなければならないと思いこむほどに、恥ずかしかったのだ。
その理由など、わざわざ剣心に尋ねなくてもわかる。部屋の中にかすかに残っているこの匂いは、左之助もまた嫌というほどつきあってきた物だからだ。
何をしていたのかは判ったが、どうしてそんなことになったのか、左之助には見当がつかない。まさか剣心が、自分を想って獨楽に耽っていたなどと、判るはずがなかった。
「ああ、しょうがねぇ・・・いや、そうじゃねぇ。ええい、とにかくあいつをひっつかまえなきゃな、話はそれからだ」
左之助は剣心の逆刃刀を片手に持つと、部屋を飛び出した。
今逃がしたら取り返しがつかないと、左之助は直感していた。剣心が神谷の家に逃げ帰る前に、引き戻さなければならない。
「きしょう、どこ行きやがった」
城の堀の辺りまで来て、左之助は足を止めた。あんな目立つ格好の剣客が、その辺に紛れ込めるはずがない。
通りすがりの人々に尋ねれば、すぐに行き先など知れた。
「剣心、けーんしん!」
片手を口元に当てて、左之助は名前を呼ぶ。
「どこ行った、忘れ物だぞ、剣心!」
雲つくような大男の左之助が、片手に大刀を持ってそこいらをうろつき回る様子は、行き交う人々を驚かせた。下手をすればそのうちに、官警に通報されかねない。
薮の中に身を潜めていた剣心は、回りをはばからぬ左之助の振る舞いに、追いつめられた格好だった。
こうなると、出てゆかない訳にはいかないだろう。
顔から火が出るのではないかと思うほどの、立場のない羞恥に身を切られながら、剣心は蚊の鳴くような小さな声で返答をした。

堀端の小さな茶店に剣心を連れ込んだ左之助は、二階の畳に恥じ入るように正座している剣心の前に、逆刃刀を差し出した。
黒光りする鞘を目にして、剣心は自分が何を置いてきたのかを、やっと知る。
信じられないような目で、剣心は逆刃刀を見つめていた。
「武士の魂じゃねぇのか、こいつは」
「それは昔の話で・・・」
「にしたって、あれっくらいで忘れんなよ」
「すまん」
「いや別に、謝るようなことじゃねぇ」
ぎこちなく会話を交わしてはいたが、すぐにでもここから立ち去りたいという、剣心の意志は左之助にも手に取るようにわかった。
気にするなと言いたいが、そうありていに言ってしまっては、剣心の立場というものがなくなる。こんな時にはどうするのが、最も良い方法だろうか。さすがに左之助も、こんな時の対処法など知らなかった。
「いや、その・・・だな」
「・・・我を、失った」
かすれた声で、剣心は呟いた。
はっとして左之助は剣心を見つめる。
「押さえ殺しているうちに、身の内で大きく膨らんだらしい。拙者はあれからずっと・・・取り憑かれたままだ」
「取り、憑かれたって・・・何にだよ」
「それが判れば・・・」
 前に置かれた逆刃刀にも手を伸ばさず、剣心はきつく両手を握った。
「寝ても覚めても、あの時のことが頭から離れない。ふとした弾みで思いだし、繰り返し心が爛れる。いったいどうしたことだと、自分を叱ってみても、一向に埒が開かず、いっそおまえに会ってみようかと来てみれば・・・」
そういうことかと、左之助はほっと息をついた。
それならばわかる。憑かれたと剣心が言うのも、良くわかる。自分も初めて色を覚えた頃は、それこそ一日中そのことばかりを考えていた。
まだ若気であった頃ならばともかく、人生の山場を越えた剣心にとって、そんな自分が惨めに感じられることも、今の左之助には理解できた。
「ああ、すまなかったなぁ」
握りしめたままの剣心の拳に、左之助の手が重ねられた。
「そんなに思い詰めてんのに、留守にしちまってよう。悪かったよ、すまねぇ、謝るのはこっちの方だ。いっぺんしたっきりで、放ったらかしだものな。いっくらおめぇに合わせる顔がねぇっつっても、そんなぁ言い訳にもならねぇ。悪かったよ、な」
「左之助」
「憑かれてんじゃねぇよ、少しうわずってるだけだ。俺もそういう時はあったし、別に妙でも何でもねぇ」
「だが今さら・・・今さらこんな・・・衝動に駆られるなど、拙者の性分が淫乱だからではないか?もしできるのなら、相手は誰でも良いと・・・そう思うほどになったら」
「誰かと寝たいのか?」
左之助はまじまじと、剣心の目をのぞき込んだ。
どきりとして剣心は、左之助の黒い瞳を見返す。
まだ子供の色を残した目は、煌めくような白い色と相まって、まさしく輝いているようにしか思えない。
「誰と・・・一番したいよ?」
「・・・左之」
 導かれるままに、剣心は答えていた。
もうこだわりも無ければ、意地を張る必要もないと、剣心にはわかる。ただ今の胸の内を、左之助の瞳を覗くように、じっくりと見つめればいい。
「左之助と、したい」
「・・・俺もおめぇが、一番いい」
惹かれるように二人の手は、伸ばしあった先にたどりついた、互いの指に絡みついていった。    
衣擦れの音を引きながら、膝立ちで剣心は左之助の肩に手を回す。押し当てた口元に、左之助の生え際の剛い髪が当たって、ちくりと剣心を痛めた。
すがりついてきた身体を持ち上げるようにして、自分の胸まで剣心を引き上げた左之助は、腰を支える腕に力を込めた。柔らかな人の重みが、心地よく肩に伝わってくる。
左之助の身体に乗りかかるようにして抱き合うと、剣心の太股のあたりに硬い物が触れた。
「左之・・・」
言うまでもなく、それが命の猛りであることが、同じ種を持つ剣心にはわかる。
「・・・さっき、長屋で逢った時からよ、もうずっと起ちっぱなしで・・・辛ぇぐれぇなんだよな」
さすがに照れを含んだ声で、左之助は答えた。
「茶店の旦那には、色つけといたから・・・用が済んだって言うまでは、上がっちゃこねぇからさぁ・・・」
「またそんな・・・」
「辛抱しきれねぇよ、こうなっちゃ」
左之助の手が結び目を解いて、剣心の崩れた着物の裾から割り込んでくる。
まだ湿っている下帯に触れられるのを恥じらって、身体をねじる剣心の膝を押さえた左之助は、膝の上に剣心の身体を完全に抱え上げた。
指先にて暗がりを探ると、我にも増して張りつめたものがあるのが知れた。先割れの部分に露がともっているのをすくい上げて、際を擦り上げる。
「・・・っ・・・」
観念したように、身体を固くしていた剣心も、かすかに咽を鳴らした。
そこをくじりながら、左之助は剣心の口を吸う。
とろりとした舌が、剣心の方から左之助の口を欲しがって、誘うように口の中で踊っていた。  
「ん・・・」
むさぼるように口を吸いあって、息が止まるかと思うほど長い間、二人は唇を重ね合わせていた。
溜息をつきながら離れると、左之助が言う。
「来てくれるなんて、思ってなかったぜ。どうにもこうにも、合わせる顔が無くってなぁ。どんな顔して会いに行ったらいいのか、ずっと考えてたんだ。それなのに、おまえの方から来てくれるなんて。俺ぁ、幸せもんだ」
「左之助」
「そのうえ、俺と・・・したくてたまらないなんて。俺ぁこれ以上何もいらねぇ。もう十分だ、おまえに欲しがられてるって判っただけで、思い煩 った甲斐があらぁ」
笑み崩れた左之助は、ひたすらに剣心を抱きしめる。
左之助の腕に巻き込まれるようにして、床の上に横たわった剣心は、息を熱くさせながら、左之助のするがままに任せていた。
手早く左之助が腰の物を引き降ろすと、イキり立った茎があらわになる。
身体を重ねたその下で、左之助は剣心の指に、そっと自分を握らせた。
みっちりとしたやや末広がりの重い根が、剣心の手の中で脈打っている。
「さっきからずっとこんなあんばいだ。きつくって仕様がねぇ」
「・・・拙者も・・・モウきつい・・・」
おずおずと剣心も、腰を左之助に摺りつける。左之助の腹の辺りに当たる熱い張りが、剣心の言葉を裏付けていた。
勃ちすぎた物は、裏側が引きつれるほどに痛むと言うが、今の二人ともはそれに近い。きりきりとはちきれんばかりにいきり立つ物に追い立てられ、気持ちばかりが先走る。
「そんなきついんなら、ねぶらせてくれよ」
左之助の申し出に、剣心は仰天した。
「そんな、汚い真似を」
「馬鹿、惚れた相手に奇麗も汚いもあるかよ、寧ろ多少汚いまねの方がな、心はときめくもんなんだぜ」
「そんな理屈が」
「そりゃぁ、変梃だろうよ。だがな、こればっかりは理屈じゃねえんだ」
ひょいとばかりに左之助は、剣心の足首を押さえると膝を素早く割り、顔をその間に埋めた。
驚いた剣心が身体を起こすよりも早く、左之助は唇で剣心の雁首を咥 る。
「!」
痺れるほどの快感が、剣心の息を止めた。腕の力が抜けてしまい、自分の身体を支えることなどできなくなる。床に身体を落としたまま、腰をのたうたせるだけが関の山だ。
太股から膝頭まが鋭く震えて、無意識に腰がそこから逃げようとするのを、左之助は知らぬ振りをする。くわえた剣心の玉茎に指を添え、そのまま舌先に力を入れた。
握ったままにしている張りつめた剣心の莖に比べて、その先端の柔らかさと言えば、まるで別物のようである。熟れきった鬼灯を口の中に入れたまま、潰さずにくちゅくちゅと弄う時のように、左之助は鈴口の辺りを舌で舐め廻した。
あまりの心地よさに、剣心は我を忘れた。一息にやってくる強い快美感に、全てが溶けてしまう。
「あ、あぁっ、あ・・」
自分の口から迸 った声に驚き、剣心は慌てて自らの手で口を封じた。
「う・・・ぐ・・・・・・」
それでも声を止めることはできない。ただ全身を震わせて、左之助の愛撫に身を任せているだけだ。
いつしか剣心の腰は無意識のうちに床から浮き上がり、背中は弓なりになってゆく。腰が左右に振れて、掴み出される快楽にもがいていた。
「左之・・・あ、左之っ!」
剣心の震えに応じて、左之助は握った手も動かしていた。上下に動く指は、たちまちのうちに剣心を極みまで追いつめようとする。
「ん・・・んぁっ!」
 左之助に咥 られたまま、脈打つ分身が今にも弾けてしまいそうで、剣心は首を左右に振り、そうはしたくないとばかりに、耐えきろうとする。
だが左之助はそれを待っているのだ。はちきれそうな剣心のものからは、先走りがひっきりなしに流れ出してくる。
「勘弁・・・」
堪えれば堪えるほど、全身の力が失われてゆく。
もういくのだろうと、左之助は激しく剣心を扱き立てた。
「は・・・ひ、ぃっ・・・」
とたんに剣心の全身が硬直して、爪先が固く突っ張り、がくがくと腰が震えた。
閉じているはずの目の前が、不意に暗闇から白へと変わり、どくどくと腎水がうち出される。
あまりのことに眩暈を覚えて動けもせず、ただぐったりと顔を床に落としているうちに、左之助に懐紙でもって吐淫を始末されているのに剣心は気づいた。
「そんなことは・・・自分で・・・するから」
「いいじゃぁねぇか。させとけよ」
さすがに間もなく二度目となると、少しばかり薄いようだと思いながら、左之助は自分自身に汚れた剣心の秘部を拭った。
ざらりとした毛の辺りにも、白いものがついている。
そんなところまでを、左之助に見られる恥ずかしさに、剣心の顔が赤く火照る。だがもう何も隠す物は無いという、ほっとした気分になる自分も、そこには居た。
「悪かねぇだろ、こういうのも」
「口取りが、これほど心地よいものとは、思いもよらなかった・・・」
まだ震える声で、剣心は素直な心情を吐露する。
これほど快いものであるならば、同じ事を左之助にもしてやれば、どれほど心地よい気味になるだろう。
「拙者にも・・・できるのだろうか」
「まさか、してくれるってのか?」
「・・・」
剣心はそうだと言う代わりに、左之助の膝の間に身体を押し込む。下履きの帯を解いて、内から頭をもたげるものを、両手で押し包んだ。
握った手の中にあるものは、いきり立つ茎が着物でもまとっているかのように、柔らかな皮膚に全身を包まれている。それが途切れる場所から覗く先端は、纏っている着物よりも、随分と色は白く優しげに見える。その部分は中央から左右に別れており、透明な露を滴らせながら、剣心の目前に突き出されていた。
これが自らの中に収められたのかと、剣心は初めての交わりのことを思い出し、再び淫心を激しくかき立てられた。
あの時に左之助は、無理を強いなかったが故に、全てが身の内に収まった訳ではない。だが引き裂かれる痛みと得も言われぬ充実感は、ここから与えられたものに違いない。
おずおずと剣心は舌を突き出して、膨れる左之助の物に触れた。
「う・・・っ」
かすかな呻きが、左之助の口から漏れる。
滑らかな感触が舌先に伝わってくる。ふんわりとした頭を唇で挟んでみたが、左之助がしたようにはうまくゆかない。仕方なく剣心は、そのまま咽に届けとばかりに、頭を立てて真っ直ぐ飲み込み、左之助を口いっぱいに頬張った。
「お、おいっ、な・・・何しやが・・・」
全てを温かな口中に含まれた左之助は、息を荒くさせて仰け反った。
だがとうてい全てが、剣心の口におさまるわけはなく、あと少しと言うところで、咽の奥に先端が当たり、息苦しくなって動きが止まる。
咳込みそうになって、あわてて口から左之助を離すと、怒ったようにそれは、勢い良く天に向かって偉容を示した。
やり直しだと、剣心は左之助を口に戻す。
舌を吸う時のように、口を窄めながら玉茎を扱くと、それまでよりもいっそう、左之助が大きくなったような気がした。
「け・・・んしん・・・」
左之助の手が伸びると、脚の間に跪 いている剣心の腰に指がかかった。丸い小さな二つの丘の間にある、細い小道に左之助の指が入り込む。
「ひぁ・・・」 
裏側から門をいじられて、思わず剣心は左之助から口を離した。左右から伸びていた手が、両方の丘を掴んで割り開こうとしている。
「ん・・・」
再び左之助を口にした剣心は、丹念に茎をねぶった。
その形を覚えてしまうほどに、ゆっくりと舌を這わせる。
小さな唇が見えない場所で蠢くのを、左之助はひどく淫らに感じていた。剣心の赤い髪が両腿の間で上下し、白い腰が自分の手につかまれて、いいように形を変える。
割開いた丘の間には、数え切れない襞によって示される、唯一の入り口があった。左之助は唾で濡らした指先で、その小さな祠の口に悪戯を繰り返す。
時には内へと指先を差し込んでみて、内側の柔らかさを確かめた。
その間にも剣心は、たっぷりとした唾液を左之助に絡ませて、全てを飲み尽くすように繰り返し、そこを愛撫していた。
気を逸らしていなければ、今にも放ってしまいそうな神経を、左之助は必死で堪えていた。
「左之・・・」
ようやく左之助から口を離した剣心は、膝の下からどこか悲しげな、それでいて欲情に濡れた目で、情人を見上げた。
「左之助・・・おまえ、出さぬのか?拙者・・・拙者では・・・まだ役不足か」
はぁ、と吐き出す剣心の熱い息に、左之助は身震いをする。
この愛しさはもう、罪に値する。
「いや、そうじゃねぇ・・・でも俺は・・・その」
何を言いたいのか、左之助はもう自分でもわからない。ただここに剣心が居て、自分を求めているということしか、頭の中には無い。
左之助は顔を上げた剣心の肩をつかむと、腕に巻き込むようにして床に押し倒した。
剣心が濡らした根は、すでにぐっしょりと唾液で濡れきっていて、挿入のための準備は、もうこれ以上必要ないほどだった。
左之助は剣心の膝裏に腕を差し込み、天井に向けてぐいと引き上げる。明らかになった裏門を見ながら、片手で高まりきったものを支え、そこに当てがった。
「俺ぁ、おめぇん中で出したいんだよ」
ぐっと押せば、痛がって身を引く剣心の肩を押さえつけ、よりいっそう強く腰を進める。
「痛い、痛・・・っ」
眉をしかめて左之助を押しのけようとしたが、両腕は抱かれた身体の下になっていて、動くはずもない。
「力入れんなら、窄めんじゃなくって、息むんだ。息を吐きながら・・・少しづつだぜ」
「う・・・っううっ・・・」
言われるがままに、剣心は左之助が力を込める度に、息を止めて力をかけた。そうすると、左之助が押し込むに従って、少しずつだが入り込んでゆく。
狭き門は強く固く根を食い縛って、雁首しかまだ入り込んでいないというのに、早くも精汁が洩り出していた。
やっとのことで胴中まで潜り込ませると、腰を止めて様子を見る。
挟み込まれる長い強張りに、剣心は唇を噛んで耐え続けていた。
左之助が浅く腰を使うと、白い咽が仰け反って荒い息を弾ませ始める。少しばかり抜いては、先ほどよりも奥へと填め進み、また一度退いては深々と入れる。そうこうするうちに、何時しか毛際までもしっくりと這入りこんでいった。
「さぁ・・・っあ・・・之」
泣き声に似た叫びが、剣心の口から漏れる。
入れ込んだのを幸いに、左之助は腰を使いながら奥を抉る。叩きつけられる若さの猛りを受けとめかねて、剣心はもがきながら左之助にしがみついた。
「左之・・・お、おまえっ・・・ぇ、こんな、こんなまでして・・・殺す、殺す気か・・・ぁ」
「これで死ぬなら、本望だって誰もが言うんだ、ぜ・・・」
「し・・・ぬ・・・ぅ」
世迷い言というものは、時として本心が出るものだが、血生臭さが抜けない互いの肌に、やはり生と死を見つけてしまう。
抜き差しを繰り返しつつ、何度も互いの口を吸い、気を失うのを引き戻す。
手に持って扱くよりもいっそう強く、食いきられるかと寒くなるほど、剣心は左之助を締め付ける。そうでもしなければ、腹の内側まで燃え立つ楔にやられて、全てが堕ちてしまいそうだった。
填め込まれた異物から、柔らかな襞を守ろうとして、剣心の身体は次第に潤い出す。どこからともなく染みだしてくる水気に、左之助と交わる場所がぐずぐずと唸りを上げだす。女ほどに淫水をこぼし出すことはないが、それでも唾液よりはずっと乾きの遅い、とろりとした露水である。
「ちょいの間に、中がぬらぬらしてきやがった・・・くそ、もうもたねぇ・・・」
「左之・・・っ」
「何遍でも、何時まででも、おめぇと・・・こうしていてぇのによう・・・くそ・・・」
切り無くできればよいのだが、いつかは最後が来るものだ。
奥にゆくに従って、滑らかなこと羽二重の如き剣心に、根元までを押し込んで突き回せば、とば口の喰いきられるような締まりに加えて、唇をしっかと歯で押さえ、悲鳴を押さえようとする顔を見れば、なんじょうもってたまるべき。
「う・・・」
「あ、ああ・・・っ・・・熱い・・・っ」
内を叩く何がしかの飛沫に、剣心は左之助の腰をきっとばかりに膝で抱く。左之助もまた、剣心の頭を肩の内側へと抱きしめながら、奈落のような精をやった。
音がするほどの濡れ男根を、剣心の身体から左之助は抜いたが、また完全には萎えきってはいないと見えて、行き着いたはずの頭の辺りから、とろとろと白濁した露がこぼれ出てくる。
息を弾ませながらも、剣心は懐から紙を出して、左之助の根本にあてがった。抜去されたものが紙に拭われて、とどまり知らぬ精汁 の流れを止める。
しんと静まり返った茶店の上を、烏 が鳴きながら横切っていった。


畳の上に仰向いたまま、剣心は両腕で顔を覆い、いつまでも動けずにいた。身体の痛みなどさしたる問題ではない、動けなくなったのは、心が重かったからだ。
感情のままにきてしまったが、何か誤ってはいないだろうかと不安になる。
まだろくに物も判らない子供の頃、教えられた通りの正義というものを辿っていた頃、やはりこうして感情のままに生き、そして後悔をした。
あの時の激情が、形を変えて噴出したような気がするのだ。
これは人の命を奪うことはないが、何かを壊しているのではないかと、剣心は怯えている。
自分が目指すものは、全て間違いではないかとすら、思うこともあるのだ。逃げることだけが、自分に残された唯一の、誰も傷つけない生き方ではないかと。
「うー、さむ・・・また冷え込んできたな」
ぶる、と身体を震わせた左之助が、下から運んできた熱い茶と菓子を乗せた盆を、剣心の枕元に置いた。
「一杯飲んだら、そろそろでようぜ、剣心」
「ああ・・・」
肘を降ろして、身体を上げるとかすかに眩暈が起きた。上逆せすぎたからだろうと、少し身体の動きを止めたのに、左之助が目敏く気づく。
「おい、気分悪いのか」
「いいや、心配ない」
「そうか?なんだか・・・その、顔色が悪いぜ」
誰のせいだと剣心は、左之助に恨み言の一つも言ってやりたかったが、それは口の中で飲み込んでしまう。左之助に抱かれたいと思っていたのは、自分の方であるからだ。
どうしてこう、弱いのかと、心の中の誰かが罵り、それはそうだと肯定する自分が見える。
惚れた相手を素直に欲しいと思っただけなのに、どうしてこうも卑屈に感じなければならないのか。浅ましい心根だとか、左之助は決してそんな見下げたような考えや、無情な理屈を感じたりはしないと、剣心にもわかっているのに、やはり自分自身を責めてしまう。
こんな者が居ても、良いのだろうか。
「剣心、もう我慢すんのはよそうぜ」
はっとして剣心は左之助を振り向いた。まるで心を読まれたようで、返事ができない。
「いつどうなるかなんて、神様や仏様だってわかりゃしねぇんだ。うっかり明日、鉄砲でも喰って当たるかもしんねぇ。昨日まで元気だったのに、明日になったら大八車にひかれて、命落とす奴だっているかもしれねぇんだ。うだうだごそごそ、したいことを後回しにして、俺はぐずぐずしてたくねぇ。機会があんなら毎日だって、おめぇと寝てぇんだよ、俺は」
「・・・・・・左之助・・・拙者、いくらなんでも、お前の妻ではないのだから・・・」
「ばぁか、できればっ、つーてるだろが。そりゃな、毎日できりゃあ文句はねぇが、二人きりになれる機会なんて、そうはねぇだろが。だからこそ、俺は絶対に機会を逃さねぇからな。これからは出来るときにする」
「左之助。おまえはそれで・・・いいんだな。こんなに情けなくも、やすやすと欲に負けるような拙者でも、蔑視したりはしないのだな」
「負けてもらわなきゃ、俺が困る」
まじめな顔で、左之助は言った。
「俺だっておめぇにゃ、きっちり負けたんだ。おめぇも何かに負けるってんなら、おあいこ同然、ありがてぇこったよ」
にんまりと笑う左之助の、可愛らしい顔に剣心はほっとする。身体の芯まで青い左之助の、そんな仕草が剣心は好きだった。
「それになぁ・・・浮き世の色事だけを、おめぇが好きか嫌いか、俺にはさっぱり判らなかったからよ。こいつが嫌いでなくて良かったぜ。好きならますます俺にとっては結構だ」
と、左之助は剣心の肩に腕を回し、顔を仰向けさせて口を吸う。
「左之・・・」
「日がくれるまで、あと少しだぜ。おめぇさえ良かったらこのまま・・・」
「日が暮れ・・・」
剣心は目を剥いた。何かを忘れているように感じていたのは、錯覚ではない。
「しまった!」
左之助の身体を押しのけて、剣心は立ち上がった。逆刃刀を腰に射し込み、襖に手をかけて飛び出してゆこうとする。
「おい!」
「すっかり忘れていたでござる!拙者、使いの途中であった!」
「使いぃ?もしかして、嬢ちゃんのか?そりゃあ、不味いぜ」
左之助もばたばたと支度を整え、剣心と共に部屋を出る。
「これは・・・叱られるだけではすまないでござるな・・・」
「打たれるか?だったら俺がおめぇのこと引き止めて、返さなかったって言って・・・」
「いや、それはあまり良い手段とは・・・」
いっそう薫が逆上しかねない。一番無難でいるのは、剣心がおとなしく薫につきあうことだろう。
「・・・もし屋敷を追い出されたら、俺んとこに来いよ。狭ぇが野宿よりゃマシだ」
「・・・・・・」
剣心は左之助の申し出を聞いていたが、くすりと口の端で笑った。
「遠慮しておく」
「なんでだよ」
「また、あんなにされては・・・身体が保たぬ」
ちっ、と左之助は舌打ちを返した。
女であれば、もっとああして欲しいと、濡れた身体ですがりついてくるというのに。
だが仕方がない、左之助が惚れているのは、緋村剣心という名の、この漢 なのだから。
「けれど・・・」
 と、剣心は声を細めて、左之助に耳打ちする。
「たまには、あんなにされたいとも、思うよ」
左之助の耳から顔を離すと、手を差し伸べてくる左之助の身体から、するりと逃れて剣心は、茶店の階段を静かな音で駆け下りた。
「おい、待てよ」
「待たん」
 まいどあり、の茶店屋の声が、呑気に屋根の下を流れた。
剣心の臓腑の辺りに凝り固まっていたしこりは、いつの間にか溶け落ちていた。 
ほかほかと暖かな胸の内を抱いて、剣心は神谷道場への帰途につく。真冬の凍った地面ですらも、今の剣心の身体を凍えさせることは、できそうになかった。
「剣心!」
背後から左之助の声が聞こえる。
「また、道場に顔を出していいか?」
その声に剣心は、振り向きざまに答えた。
「ああ、かまわぬよ」