少女小説幻覚と幻想に幻惑されて、目に見えるもの全てが事実であると錯覚した時に、彼女の周囲から現実は消え失せる。
横たわる背中に触れるシーツの冷たさも、熱っぽい手のひらに乗ったテレビのリモコンの、鈍いプラスチックの感触も、いつもなら日常の中に組み入れられたアイテムのひとつでしかないのに、口の中で噛み砕いたデザートの葡萄の実と同程度のたよりない認識でしか、今のウテナには伝わってこない。
知らないフリをしている。
無知な子供を装っている。
たわいない言葉を舌先で紡ぎながら、ウテナは自分を演じ続けていた。
尽きずに溢れる昼間のためのおしゃべりは、現実が無言の時間に侵入してくる気配を、なんとかして押さえ込もうとするウテナの、はかない抵抗である。
知らないはずがない。
子供であるというのなら、本当は何もかもを、知っているはずなのだから。
「だからそんな時は、いつもボクが先に出ていって、さっと片づけてるんです、だってそうでしょう?時間が無いじゃないですか。だいたい、学生にだってそんなに時間に余裕がある訳じゃなくって…」
「お膳を下げさせて頂きます〜」
ウテナの途切れる事のない言葉をさえぎる事ができたのは、否応なしに部屋に入ってきた旅館の仲居だけだった。
海岸から湧き出す塩分を含んだ温泉が有名な、この保養地の側には新しく作られた大きなテーマパークもあり、その遊戯施設は絶叫マシンを取りそろえていて、親子連れよりもデートコースとして人気がある。
噂には聞いていたそのテーマパークに、ウテナが初めて足を踏み入れることになったのは、どうしても兄に届けなければならない薔薇の花束があるのだと、同室の友人アンシーに薔薇の代送を頼まれたからだった。
アンシーの実の兄である暁生には、ウテナは複雑な気持ちを抱いている。
歴とした婚約者が有るというのに、彼は大胆にも戸外の車中で、ウテナの唇を奪ったのだ。
そういう人間が何を考えているか、どんな気持ちでいるかなどということには、まだウテナは考えが至らない。彼によって乱された自分の気持ちを整えるだけで、精一杯だった。
申し分の無いほどの、知恵と力と勇気と、そして容姿を兼ね備えた異性に特別扱いをされて、動揺しない者は少ない。ウテナもまた、その極少数に入ってはいなかった。
視界の隅に入ってくる、見慣れない姿の暁生の存在が、いっそうウテナの言葉を湧き出させる。
海岸線に向かって立つこの建物は、立派な白いコンクリートづくりの外観とうって変わって、全ての部屋は畳敷きの和風の作りとなっており、旅館の名前が染め抜かれた伝統的な薄い夜着が、つくりつけのクロークの中に置かれている。
暁生とウテナが着ているのは、誰でもが着るような、そんなつまらない布が一枚きりだった。
「やっぱり身体を動かしている方が好きで、でもだからって遊び回っている訳じゃないし、お弁当だってちゃんと作りますよ。だってほら、美味しいもの食べるのっていいじゃないですか。他人が作ったマズイものより、ちょっと手間かけて作っただけで、いい感じになるし…」
何もおきないはずだ。
「このあいだのテストの時に、すっごく情けないことがあったんですよ。ちょうど真ん中の日だったかな、あと五分でテストが終わるって時に、気がついたんです。ボク、その時まで全然勘違いしていて…」
何事もなく、学校に戻るのだろう。
「だから、そんな事無いって、若葉に言ったんです。だって…そんなに気にしてたら、胃が悪くなっちゃうって」
世は全て、こともなし。
「天上、ウテナ」
「はい?」
名前を呼ばれて見上げたウテナの視界には、何も映らなかった。
自分から閉じた瞼の向こう側には、太陽が地平に沈む後に訪れる、指でぬぐったような闇に閉ざされていたから。
たとえ早く走ることができなくても、素晴らしい歌を歌うことができなくても、誰でもすることが許されている、ただひとつの現実離れした行為。
覚えている限りの記憶の中で、一糸もまとわずに他人の前に裸身をさらしたことなど一度も無かった。気が遠くなるほど無防備な場所を、自分以外の人間の手に任せたことも無かった。
そうやって自分が護り続けていた、私の牙城を明け渡す瞬間を、待ち望んでいるのだろうか。
シネマの黒いスクリーンに、灰色のブラウン管に、開いた白い本の間に、想像の産物として、そしてまた確実にいつか来るはずの未来として、幾人もの少女が繰り広げてきたエピソードが、ウテナの現実を浸食しはじめる。
正視することなどできそうにない。
見なくても良いのだと、誰かが囁いた。
だが、本当に見る必要が無いものなど、あるはずがない。見なければ良かったと後悔したとて、それはたかだか百年足らずの後悔に過ぎないのだ。
永久に知らず、永久に触れられず、何も無い、何一つそこには無い。
肉体のとまどい、官能のさざめき、悦楽の陶酔、清潔に整えられた子供の遊技場にそれは無い。
軽々と自分の身体を持ち上げることができる暁生の腕は、考えていた通りに硬くて重い。かすかに窓の外から聞こえてくるテーマパークの喧噪が、まるで嘘のようにウテナには思えた。
ボクがここに居ることなんて、誰も知らない。
これは夢?
自分がこんなことができるなんてこと、考えたことも無かった。
いいや、それは嘘。
自分が一番大好きな人と、二人きりで夜を過ごすということが、どれほど危険でロマンチックなことか、考えたことのない女の子など居はしない。
「ああ、明日…どうし、よう…」
大人の男の手が、こんなに大きいということ。
この人の髪の手触りが、柔らかくてしなやかだということ。
どうでも良いような、明日のランチの準備について頭を巡らせながらも、ウテナはそうやって飛び込んでくる新しい情報の渦に、羞恥の色をまぎらわせようとしている。
どうでもいい、なんだっていい、なのにどうして自分は、こんな時にこんなくだらないコトを考えているんだろうと、我ながら情けなくなるが、ウテナの思考は止まらない。
あの人の唇が触れる。
抗いもしない桜色の唇に、暁生の指が添えられて、温められた柔らかな舌先が触れた。
まるでそこが感電したかのように、ウテナの身体に衝撃が走る。
何度も彼がくれた、唇を合わせるだけの優しい、触れるだけの口づけではなかった。ゆっくりと時間をかけて、互いの肉体が重なり合い、混じり合うまで深々と存在を重ねるための大人の口づけだ。
抱き合う身体の間で薄い夜着もはずれ、温泉でたっぷりと温もり潤った肌は、隙間なくぴったりと重なり合っていた。
「どうしよう…」
ウテナの長い髪が、シーツの上で困ったように揺れた。
逃げない獲物は、決して嫌なのではないと、狩人は経験の上から熟知している。
NOと提言されるまでは、YESであると認識していて良い。本当にNOであるなら、彼女はそこには居ない。我慢できないものを我慢できるような才能のある人物など、今の世では稀だろう。
「どう…しよ…」
何もかも自分で決めてきた。
この学校に行こうと言うのも、トレードマークである改造制服を着ることも、全て自分の意志で決定したことばかりだったのに、今は何も決めることができない。
期待していなかったとは言わない。
けれども、最初からそのつもりだった訳じゃない。
まして暁生さんには婚約者が居て。
自分よりずっと大人で、ずっと立派で、ずっと…。
……あの人より、ボクのことが好き?…
「好きだよ。大好きだ…アイシテル」
耳元で囁くように言われると、ウテナの全身に痺れが走った。とろけるような甘い満足感が、緊張していた四肢を柔らかく弛緩させる。
「君は、本当に素敵だ…きっと、もっと素敵になる。これから数年後、君は誰にも負けないほどの素晴らしいレディに…なる、きっと」
男子生徒にも負けないほどの瞬発力とスピードを秘めたウテナの身体は、まだ少年とも少女ともつかない輪郭が残っていて、中性的と言ってしまえるほどだ。
だがそれでも仰臥していてもゆるやかに膨らむ乳房や、丸みを帯びた腰のラインは、成熟を控えた女性のそれになりつつある。
暁生の言葉はまさしく魔法の呪文となってウテナを解放した。
頑なに閉じていた膝から力が抜けて、暁生の脚の置き場を理解する。
「初めて、だろう?さぁ、ボクに触れて…」
ウテナの細い手首を掴んで、暁生がウテナの指先を誘ったのは、少女にとっては未知の領域であり、禁忌とも言える場所だった。
朦朧となった意識の中でも、暁生によって連れてゆかれた手に触れたものが何かは、ウテナにもはっきりと理解できた。
思わず逃げようとするウテナの手首を掴んだ暁生の手に、力が戻ってくる。
「だめだよ。もっとちゃんと触れなくちゃ」
「…や…」
「知っておかなきゃ、これが…君に、君の中に入ってゆくんだから」
「あ…」
「そんな顔、しなくても大丈夫だよ。痛くなんかない、苦しくなんて…ないさ。これは…いいものなんだから」
その代わり、とでも言うかのように、暁生はウテナに触れた。
やっと明け渡された砦の向こうには、みずみずしい泉が溢れ、朝露のような雫が若草をしっとりと濡らしている。
「あ、あぁぁ…」
亀裂を探る暁生の指先が、全ての器官の中でも最も心地よい場所に突き当たって、ウテナは押さえきれない声を上げた。
そのあまりにもはしたない音に、全身を恥じらいの朱色に染めて、ウテナは目を閉じる。
「可愛いね」
唇を重ねてくれる暁生に、ただひたすらむさぼるように、ウテナは深くキスを繰り返す。こうでもしていないと、またあんなふしだらな声を上げてしまいそうだったからだ。
熟れているというには、まだわずかに早い果実を、暁生の手が探る。
滴り出す果汁にまみれた指が、色づく門をわずかに開けた。
「あっ…」
「大丈夫」
「でも」
「僕に、任せて…」
ウテナの掌から、張りつめた何かが去って行く。
自分でも信じられないほどの蜜が、身体の一部から溢れ出ているが、それに気づくことができないほど、ウテナは混乱しきっていた。
熱い強い不思議な塊が、脚の付け根に触れている。
ゆっくりと下に降りてくると、意志のない部品にすぎなかったものが、まるで何か別の物体のように、ウテナに向かって迫ってきた。
「…な、に…?」
全てをかきわけてやってくる、自分には無いものが、暁生自身であることはわかっている。
大好きな彼が、自らの内に訪れようとしているのだ。
迎え入れようとするウテナの意志と、未知への恐れの本能が、ウテナの中で決闘を繰り返す。
勝者も敗者も存在しない決闘の決着は、一瞬でついた。
「ん、ん…っ…」
初めてはひどく痛いものなのだと、噂の端々で耳にしていた知識は、間違ってはいなかったが、決して真実そのものではなかった。
やみくもに肉体を求める未熟者などとは違って、経験豊富な熟練者の手によって開かれていったためか、苦痛と言うよりも異物感の方を強く感じる。
だがそれでも、ある程度までがウテナの我慢の限界だった。
次第に奥へと入ってくる魔法使いの杖に、ウテナは膝を折って逃げたくなる。逃れようもない場所にもかまわず、ずり上がろうとして、寝床を強く押してみる。だが身体はびくとも動かない。
「苦し…っ…あ…っ」
「まだだよ」
くす、と暁生が笑った気配がした。
「まだ、ほんとに少しだけ、なのに…ね」
暁生が言う通り、ウテナの中に収められていたのは、半ばどころかほんのわずかな部分だけだった。
「もう…ダメ、かな…」
「う…っ…」
「でも、許さないよ」
無力な抵抗の様子を見せる少女の腰を大人の手で抱えると、暁生はウテナの身体を自分の方へと強く引き降ろした。
「あーっ!」
深々と貫かれたウテナの身体に、一瞬の衝撃が走る。
子供の頃のよく晴れた冬の朝に、荒れた指先のささくれから滴った鮮血の色が、ウテナの瞼の裏側で甦る。
ほんの少し、痛かった。
座席の下から響いてくる車のエンジンの振動が、ウテナの身体の内側でいつまでも消えない鈍い感覚を、よりいっそう鮮明にさせる。
遠ざかるテーマパークの色鮮やかなネオンとライトが、たった今まで自分の身におきていたことを、幻想だったかのように錯覚させようとしていた。
あれこそが現実。にぎやかな遊園地の、当たり前の楽しさこそが、今までの日常の全てだったのに。
「…嘘みたい」
誰にも聞かせたくない独り言を、自分だけに囁く。
「ほんと、なのかな…」
左側の運転席に座る理事長の横顔には、何がおきたのか説明するようなものは、何ひとつ描かれていない。
いつものままの暁生の表情に、ウテナは嘆息を漏らした。
「あんなことに…なっちゃうなんて…」
そういえば、自分は何をしに彼の所に来たのだったろう。
「ボクはただ、薔薇を…届けにきた、だけだったのに…」
そうだったろうか。
たった一人で、暁生に会いに行けることを心密かに、喜んでいなかっただろうか。そして、未知の何かを期待していなかっただろうか。
だから驚かなかったのだ、あの人に抱きすくめられても、苦しいと呟くだけで、嫌悪感など微塵も感じなかった。
それを待っていたから。待ち望んでいたから。
「…ほんとに、どうして…」
でも、自分から来たんじゃない。
頼まれたから、行かなければならなかったから、仕方なく。自分からそうした訳じゃない。無実の少女はただ、一人嘆き呟く。
「どうして…」
だが、現実は知っている。
少女が全てを知っているということを。
誘惑の危険を、幻想の無価値を、そして無垢の持つ罪さえも。
終